『Franny and Zooey』(邦題『フラニーとゾーイー』)は、それぞれ別に発表された「Franny」(1955年)と「Zooey」(1957年)を1つにまとめた作品である。名門女子大で演劇や詩を学ぶグラース家の末娘フラニーは、過剰な自意識にさいなまれ、エゴの蔓延する世の中に吐き気をもよおし、デートの最中に失神する。心身のバランスをくずした彼女は、「ひたすら祈れば悟りが開ける」と説く「巡礼の道」という本に救いを見出そうと、自宅のソファーの上で子どものように丸くなって祈りの生活に入る。当然、家族にしてみれば、睡眠も食事もろくにとらない彼女が心配でたまらない。兄ゾーイーの懸命の説得もむなしく、フラニーの心はかたく閉ざされたまま。あげくの果てには、亡くなった長兄シーモアと話がしたいと言いだす始末。
そんな妹のために、兄の啓示を受けるべく、ゾーイーは久しぶりに兄の部屋に足を運ぶ。戻ってきた彼は理路整然とフラニーの過ちを指摘していく。「目の前で行われている宗教的な行為(母親はなんとかチキンスープを食べさせようとしている)に気づきもしない人間が、信仰の旅に出て何の意味があるのか」など、ゾーイーの口を借りて伝えられるシーモアの言葉にフラニーは…。
服装や言動の緻密な描写が暗示する登場人物たちの内面、すれ違っていく男女の心、フラニーが神経衰弱に陥っていくまでの心の動き、妹を救うためのゾーイーの奮闘、そして、死してなお絶大な影響力を持つシーモアの思想など、読みどころの多い作品。(小川朋子)
ご冥福をお祈りします
★★★★★
何度も読み返した小説です。
フラニーの気持ちには共感できないし、ゾーイーの最後の言葉も
意味がわかりませんが
最初から最後に至るまでの言葉のやり取りが面白かったです。
爆笑問題の太田のお勧めなので読んでみたけど・・・
★★★☆☆
爆笑問題の太田さんが強烈にお勧めしていたので読んでみたけど、
実際の内容と彼の解釈とは違うような。(苦笑
一言でいえばこの本は、キリスト教の説法本ですね。w
僕が思うに、世の中の不条理だとかエゴだとか、生きるに
苦しいと思う多くの事は、結局は神を持ち出さないと
逃れることが出来ないのかと、無宗教な自分には、ちょっと
ブルーな気持ちになりましたよ。ええ(苦笑
あーあ、この世知辛い世の中に、こんな本を読んでると、
また西洋コンプレックスに拍車がかかりそう。
彼らがこういう意識を人生のモチベーションとしてるなら、
所詮は西洋文化の上っ面にしか過ぎない個人主義=利己主義に
汚染された日本の将来は?・・・
世界を愛せる事に気付く前の絶望、或いは遅い思春期
★★★★★
「サトリ」という妖怪がいる。人の心の内を読んで、逐一口に出してくれるお節介な妖怪。
グラース家の子供たちは、人類にとってのサトリなのだ。
嘘や見栄や自慢や自己弁護を、見破られたいと思う人は少ない。
しかしそれを見破る方にしたら、見たくもないものを見せられて、その真実を顕わにしているだけなのだ。
―何故尊敬されたがるのか―何故在るが儘の自分に満足しないのか―何故満足するまで努力をせず嘘で飾るのか―
これが、フラニーの嫌悪の根底だと思う。そしてそれを嫌悪する狭量な自分を恥じている。
若い頃、正に泣きながら読んだ記憶がある。あの時、私はフラニーだった。
嘘、見栄、自慢、自己弁護…どれも他者が在るからこそ人間が必要とするもの。
他者によらず、宗教によらずに生きる事は可能だろうか?
自分なりの価値観や良識を持ち、その上で他者を否定せずに生きる道は。
この世には美しいものも醜いものもあって、それで世界が構成されている。
しかし、美しいとか醜いとか感じるのも単に個人の感受性の判断であって、
ああ、この厄介な「感受性」とかいうものを、己から剥ぎ取って捨ててしまえたら!
こんなにも激しい感情の起伏に悩まされずに、平安を享受できるかもしれないのに。
若かった私はそう思っていた。今考えると微笑ましいものだ。あの頃は切実だったが。
フラニーとゾーイーの違いは、年齢によるものだけではないのではないか。
女性であるが故に、フラニーはゾーイーより重い十字架を背負っているように思う。
男性より賢くてはいけない、男性より愛情深くなくてはならない。
ボーイフレンドとの会話でも、そんな重圧を感じる。私が女だからかも知れないが。
神とは何か―崇拝とは何か。同化することである。それは自分を客観的に見る事と似ている。
神を崇め奉っても、それに近付く努力がなくては、それは単なる自己満足の儀式である。
神は自分であり、世界は自分である。一は全、全は一。
この体の中のこの脳で考えているから、自分が特別なような気がするのであって、
実は世界に特別なものなどない。というか、全てのものが等しく特別なのだ。
この世は神で満ちていると言ってもいい。
ゾーイーはフラニーに世界の愛し方を教える。自分の赦し方を教える。
嘘や見栄や自慢や自己弁護を、「可愛い」と思えるものの見方。
人間の醜さや弱さを愛すべきものとする、ほんの少しのきっかけを、天啓のように。
ふたりが幼い時に、シーモアとバディが「知識」より先に「知恵」を与えたのは、愛情からだ。
若しくは自分がそう在りたかった理想から。まあ僅かな実験的意欲も感じるが。
親への反抗期がなければ親離れはできないという。本当の親離れとは対等の目線から親を愛するという事なのだ。
これはフラニーの世界への反抗期の物語であり、一度は離れた世界を再び愛するまでの物語である。
なんか爽快。
★★★★★
不思議な読後感。なんか爽快。
長い思春期から目覚めたような気持ちです。
思春期真っ只中のあなたはもちろん、大人になったあなたが、思春期の時(にかぎらず多感な時期)に向き合いながらもどうしようもなく、ずっと胸に留めてきてしまった気持ちを、解放してくれる、そんな物語。
個人的な感想ですが、この本を読んだ後、当分本は読まなくていいなと思いました。
そして、外に出て、動きたい!見たい!感じたい! そんなエネルギーをくれた本。
感受性が強く、自分の繊細な気持ちに、疲れてしまった、フラニーのようになった時に、これからも何度も読み返すでしょう。きっと『太っちょのオバサマ』がまた助けてくれるから。
どうでもいいけど、その「チキン・サンドイッチ」を早く食え!
★★☆☆☆
大昔に4回読んで、それでもやっぱり意味が分からなかった『狭き門』のアリサのことを思い出した。
っていうか、宗教について考えはじめる女の子は具合が悪くなるくらい、いったい何に悩んでいるのか。
それが理解できないというか共感できないというか。
どうでもいいけど、その「チキン・サンドイッチ」早く食えよ。って云いたくなる。
そんな小説。
ほとんどの部分を会話が占め、ページ数も少ないけれど、思ったほど簡単な本ではない。
フォントが小さく改行も少なくて読みにくいし、内容がまたクセのある饒舌な科白で構成されている。
すごく読んでるのにちっとも時間が進んでないような錯覚を覚える。
グラース夫人はいつまでたっても息子のバスルームを出ていかないし、ゾーイーはいつまでたっても妹のいる居間を出ていかない。
神をどう理解したものか、ということをそこそこ真剣に考えてきた人であれば
それなりに感動、というか共感するところのある小説であると思う。