読み終えて、心の支えを失う
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読み始めて3カ月をともに過ごした本と、きょうお別れした。三蔵法師一行は、八十一の苦難を乗り越えて、経を手にして大唐帝國の宮廷に戻り、やがて仏陀、菩薩として天竺に入る身となってしまった。いまとなっては、通勤バスの中で、1回、1話ごとに、彼らの道中に一喜一憂していた記憶も、涙が出るほどになつかしい。
あすから、何を心の支えにして通勤すればよいのか、途方にくれてしまうほどだ。
長い本を読む楽しみは、毎日、少しづつ読むことで、登場する世界と自分の日常を長期間にわたって、一緒にすごすことだ。実際に読書する時間は、毎朝の通勤時間のうちのせいぜい十五分間だとしても、それ以外の時間でも、仕事が途切れた間や、ふとした瞬間に、読んだ記憶を反芻して、『三蔵法師たちは、いったいどうなってしまうんだろうか』『破門された悟空がいなくなった一行は、無事に旅を進められるのか』と、気をもむことができる。
読んでいない時間も、彼らとともに生きているわけだ。そのともに歩んだ時間があしたからは、なくなってしまった。これほど、つまらないことはない。
最終回に向かう、第九十九回と第百回を読むかどうか。とても迷った。終わりになってしまうと、それまでなので、最後の二回を残して、別の長編を読み始めるかどうかも検討した。終わりそうになると、別の長編や、違う本に走り、『西遊記』のことを思いながら、別の本も楽しむ、という延命工作のやろうと思えば出来た。
でも、今回は、延命せずに彼らの成就を一気に読むことにして、最後の二回分を読了した。長かった旅の終わり。天竺に到着してから、いったん経を受け取ってからも、波乱はあったが、見事に願いを成就させた四人。それぞれに仏や、菩薩となり、凡体を脱した一行は、物語の完結後、ほんとうに満足に永遠の時間を過ごしているのだろうか。
世間知らずで、腕力もなく、すぐ泣き、すぐにこわがる三蔵法師は、仏になって、それでよいのだろうか。
四人の中で最も知略と腕力に優れていたが、とてつもなく短気でスグに切れた悟空、血の巡りがいいだけに勢い余ってとんでもないことをしでかしてしまう悟空は、仏になって、それでいいのか。
飯をがつがつと食べ、未だに別離した女房を思い、出会う女性に色欲を覚えて解脱しきれない八戒は、菩薩になって、それでいいのか。
三人の弟子の中ではもっとも寡黙だが、要所で仲間をまとめつつ、ひっそりと同行して来た心優しい悟浄は、菩薩になって、それでいいのか。
三人の弟子が苦戦するとき、本性をあらわして天上に助けを求めた白馬は、菩薩になって、それでいいのか。とっても気になる。
三蔵法師と悟空は、仏になったが、八戒と悟浄は、一段階低い菩薩になった。仏にしてもらえると思っていた八戒は、如来に対して不満を口にしていたな。心中、期するところはないのか。八戒。
思い返すと、四人と法師が乗る白馬の一行の目的に向かい、ふりかかる苦難に対処していた道中が、とてつもなく懐かしい。
三蔵法師よ、頼むから、いつものように情けないほどにびくびくして、白馬からころげおちてくれ。
悟空は、いつものように、相手が王様であろうが閻魔大王だろうが、突っ起ったままで礼もしないで、ぶしつけにモノを言い、反論されたら逆ギレしてほしい。
八戒は、ありったけの、お斎にありついて、腹が破れるほどに飯を食らい、なまずに化けて、入浴中の女性の股ぐらをスイスイ泳いで欲しいぞ。
悟浄は、最も長い時間を三蔵法師のそばにいた寡黙な弟子だった。仲間がばらばらになりそうなときに、師匠にも手が付けられないほどに興奮した悟空に、いつも静かに語りかけられるのは、彼だけだった。
常に三蔵法師を乗せて歩いていた白馬は、ずっと天竺への道を一行とともに目指し続けて欲しいぞ。
天竺を目指していた過程の、彼ら一行が、これほど懐かしく思い出されるなんて、考えても見なかった。しかし、いったん本を読み終えた後、本を手にして、いくら読み返しても、新たに読んだ時の感動は蘇らない。読書していた自分自身が、彼らと同じ時間を過ごしていたので、いくら読み返しても、それは過ぎた思い出をたどっているに過ぎないからだろう。
さようなら、仏になった三蔵法師と悟空。さようなら、菩薩になった八戒と悟浄と白馬。この本の訳の原本となったのは、明代の簡本(百回の講談形式にまとめた簡略型=今日にもっとも一般的に伝わっている)だというので、いつの日か、日本の中国文学者が、明代に流布していた繁本(三百回くらいあるらしい)をもとに翻訳してくれた本が出たときに、もう一度彼らに会いたいと願います。
それで、今、中国文学を志している人が、僕の、この『西遊記』の感想を読んでくれたならば、必ずや一流の中国古典文学の翻訳家となり、繁本を底本にした『西遊記・完全版』を訳して出版してください。必ず読みます。よろしくお願いします。