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麦秋 [DVD] COS-022

価格: ¥421
カテゴリ: DVD
ブランド: Cosmo Contents
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一家離散と戦争の影 ★★★★★
実は、最初観たとき、小津作品についてよく言われる「娘が嫁ぐ話」としてしか捉えていなかった。他の作品に比べて、その「嫁ぐ話」が重い意味を持つのは、働き手としての娘、紀子(原節子)を失った二世代の家族が離れ離れになってしまうからだ。
耳の遠い曾祖父(高堂国典)への子どもたちのいたずらや、紀子の上司(佐野周二)、親友アヤ(淡島千景)とその同級生たちの賑やかな会話などが、前半を実に軽妙に展開させている。
その後、いつの間にか、映画の中心は、戦死した紀子の次兄、省三になる。老いた両親が「省三にもそんなことがありましたね」と言う、どこかの子供が手放したであろう風船は、天に上がる様が恰も死者の昇天のようでもあり、虚空を見つめる老母(東山千栄子)の視線の向こうには明らかに亡き省三の姿がある。極めつけは、紀子が夫となる矢部(二本柳寛)へ次兄の形見の品を所望するシーンで、この前には、間違いなく意識的に神田のニコライ堂と合唱の音楽(映画の中で唯一)が使われ、いくらかの宗教的荘厳さが隠されつつも表現されている。
この後、矢部の母(杉村春子)と紀子の「ホントに(嫁に)来てくれるのね?」の名シーンにつながる二人の子供の失踪があるのだが、実に子どもたちが行く海岸通りは、金属供出により、柵としての機能を失った手すりが続いている。こうした細やかな演出の中にも小津監督の戦争への想いや明日を生きる人びと(つまり私たち)への強いメッセージを感じ取れる。
紀子三部作は、観る時々でどれが最高傑作が変わるのかも知れないが、計算された脚本、演出の細やかさという点では、随一と言っていいと思う。
この作品が特別である理由 ★★★★★
紀子三部作の第二作。日本人必見の映画であることは疑いないが、何が本作を特別なものにしているのか?

まず、他の小津作品に共通する要素が数多く登場し、反復・変奏を本質とする小津映画のファンにとって時間の流れに身を任す悦楽に満ちている。娘の縁談、ユーモラスなまだ子供の兄弟、朝食風景に始まる食事と会話の場面の多用、家が小料理屋の友人、結婚組と未婚組の会話、北鎌倉駅と電車での出勤、次兄の不在に象徴される戦争の影、父母の老い等が、バランスよく盛り込まれている。

では本作のハイライトは? それは杉村春子が原節子に打ち明ける場面。二人の台詞と演技は最高だ。三世代家族の分解のきっかけを作った原節子が涙する場面も良い。

上記ハイライトでめでたしめでたしとはならずに、古き良き大家族の緩やかな解体と諦念を続いて描く点が、東京物語は誰にでも書けても、本作はちょっと書けないという野田高悟の発言につながるのだろう。「みんな段々遠くなる」「いつかはこうなるんだよ」という台詞が心に染みるし、家族の集合写真撮影と埴生の宿を奏でるオルゴールが印象深い。
結婚できない男と永遠の処女 ★★★★☆
黒澤明や溝口健二の映画は一目みただけでその凄さが伝わるのだが、一連の小津作品(特に原節子と組んだ6作品)を見ると、なんでこんなちんまい映画が世界的に高い評価を受け、小津自身巨匠と呼ばれるているのか、未だによくわからない。「結婚しない娘を心配する家族」という、外国人からみれば非常に物珍しいテーマを扱った作品群には、やれ「日本伝統文化の復権」だとか「究極のリアリティ」、はたまた「前衛的」あるいは「父子相姦」などと、批評家が勝手に思いついた形容詞がつけられているが、自分的にはどれもあまりしっくりとこないのである。

『麦秋』は、『晩春』と『東京物語』の間に位置する紀子三部作の2作目。父と娘だけの2人暮らしという設定から、親子2世帯が同居している大家族に舞台が移り変わっており、たくさんの登場人物が入れ替わり立ち替わりスクリーンに登場し大変にぎやかだ。「本作で家族の輪廻のようなものを描きたかった」と小津は語っていたそうであるが、次作では家族がものの見事に分裂してしまう悲劇が鮮明に描かれており、この3作品についていえば<家族形態の変遷>が主要なテーマになっているといえるだろう。

そして忘れてはならなのが、結婚しない女・紀子(原節子)の存在である。実はこの映画、終盤まで紀子が結婚しない理由がよくわからないまま物語が進行する。『晩春』では、結婚した後一人残される父を心配する娘の立場を強調しすぎたためにあらぬ誤解を招いていたが、本作における事情は実に単純明快。途中、戦死した兄・省ニに対する喪失感や、兄嫁を気遣う紀子の心情なども一部ふれられてはいたが、兄の後輩である謙吉が秋田転勤するという話を聞いてやっと嫁ぐべき相手を悟ったと見るのが自然であろう。

小津の映画を高尚な芸術作品ととらえたがる批評家にとっては、どうしても戦争トラウマの一つでも言っておかないと気がすまないのであろうが、この結婚しない女、いや結婚できない女は、(本作品に限っていえば)生涯独身だった小津自身の投影であるとする佐藤忠男の見方が一番当っているのではないか。「40歳過ぎてもぶらぶらしている男の人より、子持ちの人の方がしっかりしてていいと思うの」前作を、敗戦という現実からの逃避と批判されたことへの、見事な自虐的切り返しである。

“結婚できない男”小津安二郎のコンプレックスや自己願望を、“永遠の処女”原節子の姿を借りて表現した自己投影作品。当時、小津と原の私生活におけるロマンスも話題になったらしいが、生涯独身者を主人公にした映画といえば、同じ松竹の後輩・山田洋次監督の『寅さんシリーズ』とつながるのである。セルフリメイクともいえる同一テーマ・同一設定のリフレインは一見凡庸にうつのかもしれないが、小津や山田の凄さは(周囲に何といわれようが)それを徹頭徹尾つらぬいた職人気質にあると思うのである。
笑い過ぎて顎が痛くなります(^^)/‾‾‾ ★★★★★
役者さん達、ほんとに素でやってるんでしょうか。わしらは、酔っぱらってもあんな芸は、
出来やしません。ねぇ〜ねぇ〜が移りそうで怖い。
きっと、スタッフ全員が、何か得体の知れないモノを食らって創ったのかも知れません。
これは、誰もリメイクしないように巧妙につくられた恐怖映画かとも思えます。
不自然過ぎて、恐ろしいのであります。
じゃんじゃん(T_T)
淡々としたホームドラマ ★★★★★
 小津の映画の中で 個人的に一番好きなのが本作だ。

 婚期を逃しかけていた娘(原節子)が結婚し、秋田に引っ越すことを機に 大家族が離散し核家族に分かれていく様を いつもの通り 淡々と描いている。原節子の結婚相手は 子連れの男やもめであるというような 若干の「事件性」は有るものの 基本的には ごくありふれた家族ドラマだ。

 そんなドラマなのだが 何べん見ても飽きない。

 原節子が結婚を決意した際に 姑になる 杉村春子が「あんぱん食べる?」という名高いシーン、
 一家離散が決まった後に行う家族の集合写真撮影の場面、

 原節子が友人の淡島千景と結婚を決意した気持ちを伝える場面、



 ありふれていながら妙に心に残る場面が忘れがたい。中でも 僕は最後に 麦畑の中を歩いていく婚礼の行列の美しさには 毎回惚れ惚れとしてしまう。

 こういうホームドラマを 果たして今の僕らは作ることが出来るのだろうかと思ってしまう。そう おそらくとても難しいのだ。