一般的な意味で忠臣蔵を期待すると、肩すかしをくらう。
★★☆☆☆
「忠臣蔵」と言われて、何を思い浮かべるだろうか。
「赤穂事件」を映像化する時、最も起こりがちな問題であるが、史実と過去のフィクションから取られたエピソードの配合割合が、鑑賞者側には無断で、制作者の都合に応じてぐちゃぐちゃにされることが多い。
丸谷才一にも、大きな混乱がある。
この本のタイトルに「忠臣蔵」と記載するのは、適切ではない。
これは、「仮名手本忠臣蔵」に限って述べられた話であり、タイトルも「仮名手本忠臣蔵とは何か」とすべきものである。
史実について記載されたわずかな部分は、はなはだ不正確である。
そんなに反乱が好きだから鬱屈するんだぞ、
★★★☆☆
発表当時、忠臣蔵に関する画期的な本として評判になった本の文庫化、現在でも忠臣蔵に関するエッセイ本としての価値は減っていない、司馬遼太郎のエッセイと双子のような「〜に違いない史観」本であり学術論文ではない、あくまでも文芸評論家による評論です、司馬が常に売り上げを意識した敷居の低い文体を心がけていたのに対し、旧かな旧字まじりの硬い文体は読者を選ぶとともに「読めるものだけ読んでみろ」的な読者に挑戦的な姿勢も感じる、
忠臣蔵とは何か、との表題に対し著者は忠臣蔵は反体制劇だったといいたいらしいのだが、たしかにその面はあるとおもうが、全編を読み通しても何かすっきりしない、かゆいところに手が届かない、奥歯にものがはさまったまま、と陳腐な表現が逆にぴたりとこの本に当てはまる、
例えば数百年後の評論家が「踊る大捜査線」の魅力を分析して、行き過ぎた官僚主義が跋扈した20世紀末の日本で官僚主義打倒を夢見る国民から圧倒的な支持を受けた刑事ドラマであり、主人公の名せりふ「事件は現場で起きてるんだ!」は、元禄忠臣蔵の大石の名せりふ「長い年月待ちましたのう」に匹敵すると現在はみなされている、などと書いていそうな状況を想像させるからです、
そこで思うわけです、こりゃ設問自体が変なのだと、
忠臣蔵といえば「仮名手本忠臣蔵」、人によっては「元禄忠臣蔵」、ある人には大仏次郎の「赤穂浪士」、また別な人にとっては史実としての赤穂藩断絶事件、市川中車が吉良上野介を演じた映画を思い出す人もいるでしょう、
著者の頭の中ではそれらすべての上位に「忠臣蔵」という抽象的な概念のようなものがある、と仮定されているようなのだ、私はこれを混乱と考えるが著者の頭の中では混乱は混乱のまま放置されながらも筆はどんどん進むというきわめて「文学的」な作品になっているわけです、第1行目、徳富蘇峰と芥川の会話から混乱が始まるのは逆に用意周到なのかもしれない、
したがって忠臣蔵とはまことに得体の知れない実に不可解なものであることが逆に博覧強記によって証明されていると考えます、
近い将来、海老蔵の大星、七之助の塩谷を期待するような普通の歌舞伎好きの読者にとってもお軽勘平に関する分析や曽我兄弟に関する薀蓄をはじめとして読んで置く価値は高い本です、
日本一文字にうるさい著者ですが、「宗教的確信犯」という間の抜けた言葉を使っていたり(この人、法律や宗教は詳しくないらしい)、「カナッペやサンドイッチのように重層的」などと滑稽な形容をしてみたり(ミルフィーユや牡丹鱧のようにではないし、柱状節理や半導体の断面のようにではないのね)とちょっと愛嬌もあります、
国民的戯曲を裸にして反体制劇を見出す
★★★★★
見事です。典型美にさえなっている国民的戯曲を一つ一つ史的事実を挙げて、隠された意図を明白にしていきます。それによって、強固な忠君忠孝の啓蒙近世戯曲が反体制戯曲であることが知れて来ます。ただ、この書のすごさは謎解きのレトリックなことではないです。この戯曲が悪政批判であることを、戯作者も役者も興行主も観客も、世間全てが判っていたと説きます。そして為政者自身すらもそれを心得ていて現実社会にそれこそ芝居がかった政治をなそうとしていただろうと解説していきます。この書のすごさはそうであるにしても、読後にもう一度読者に大きな驚きを発見させてくれます。この驚くべき著書を誰に読ませようとするかを思案した時に、困難さを知るのです。次世代には忠臣蔵など無意味になっている。解題して反体制劇だと理解してもレトリックさは煩瑣で、尚反体制劇など、体制迎合の次世代にとっては理解する意味をなさない。また忠臣蔵を盲信している旧世代にとっては今さら反体制劇だと分ったところで信念を動かすようなことは無いでしょう。聴衆が誰もいない中で感銘のある演説をしているような薄ら寒い思いをしています。