侵犯され危殆に晒されるものとしての〈意識〉 〜観念論から引き戻す
★★★★★
ラカン学派の継承者にして本書全体をデカルトの最も有名な箴言に主題を採ることによりカント的整理、ヘーゲル的総合をもういちど意識の基礎分析に引き戻し、現代の大衆社会の中にイデオロギー論争と言うか、神学論争を再び堂々と持ち込んだ画期的著作と云えよう。後近代、戦後、冷戦後、新世紀、9・11以降、・・・という時代認識に伴う自己省察に独観念論をそのまま読み下すことはまずできないものの、改めて振り返るときにその大きさ、自己省察の方法としては18世紀独逸思想の衝撃からいまだ抜け出せないことを自覚させてくれるものだとも云えよう。しかし勿論、カントの思想もヘーゲルの思想も精神分析ではない。ヘーゲル以降にその成否は再審査の必要のあるマルクスやキルケゴール、ニーチェに思想界が真っ二つに岐れたのは社会の危機、精神の危機に対応する思想が如何に必要だったか、を示している。仏革命の悪魔は前世紀には露革命の悪魔、独革命の悪魔に化身し降り立ち、欧化後のアジアにもカンボジアから北朝鮮まで、場所と姿を変えて今日まで彷徨っている。そして、今又旧ユーゴの人々を見れば外見ですぐ判るように否定すべき悪魔が此処でも生き残り蜷局を巻いて淀み蟠っている。これを解き解すまで通常の精神が持ち堪えられるかどうか、持ち堪えている間に何とかそれを解き解す事が可能か、著者が果敢に挑戦したのはこの課題であると私は思う。