日本論ともいえるべき本書。
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あまりにも有名な現代文明批判の本書ですが、簡単に要約すると、歴史を重んじない、自己犠牲もない、理由無き万能感を持った大衆が政治権力を持つことになった現代ヨーロッパに対する批判の書です。
大衆とは、現実の貴族や指導層に対する階級的な対立概念ではなくて、現代人の一つの形であり、現代の指導層ですら大衆であるというのがオルテガの大衆の概念であり指摘です。
自己犠牲、責任を果たす決意もない大衆が、分別なく権力を奪取する気になったのは、科学の発展により、大した知識が無くとも文明を操ることができるようになったことが原因であり、その大衆が過去積み上げられた歴史的遺産である知識に対して尊敬の念を持たなくなったことは、政治の一貫性、人の共存性、社会構築の努力を失う結果になると警告します。
この議論、現代の日本に当てはまり、とても1920年代に書かれた本とは思えないほどです。
スペインの哲学者ということもあってか、多少、読みくい本ではありますが、十分読み応えがありました。
マドリード大学の博士課程の授業で「君は国で何を勉強したのか」と聞かれた。
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オルテガの『大衆の反逆』をやったと答えた。学士院正会員のカルロス・ボーソニョ教授(詩人・評論家)は「オルテガの著作を今のスペイン人は読まないけれど、彼はすぐれた思想家だ。君はオルテガが好きか」と聞いて来た。
「私は好きではない」と答えた。スペイン人は、オルテガの文章はエレガントだというが、私にはもってまわった冗長表現に思われるからだ。教授によると、本書は、オルテガの最高傑作ではないそうだ。
だが、本書は、私に強烈な影響を与えた。
「輪転機に生まれた思想家」とオルテガは言われる。新聞にエッセイを多く発表し、国民の啓蒙につとめたからだ。私もオルテガのように、内地の新聞に意見をたくさん書いた。読売、朝日、毎日、産経、中日などである。
英会話のサークルで「最高の政治形態は何か」と聞かれた。私は「独裁制」と答えた。質問者は、あきれてそれ以上のことを聞いて来なかった。だが、もう少し聞いてほしかった。私が言ったのは「オルテガのいう貴族による独裁制」のことである。
この貴族の概念は、左翼から誤解され、復古思想として、攻撃の対象となっている。だが、本書を読めは、オルテガがいかなる意味で、貴族という言葉を使っているかがわかるだろう。
国会議員として政治にも参加したオルテガ。私も選挙に立候補したところ、供託金は返還になった。しかし、当選はできなかった。
先の衆議院議員選挙で、私が卒業した大学の卒業生から2人の新人国会議員が誕生した。私も落選にめげず、再度立候補して、我が国の発展に貢献したいと思う。
今の日本が書かれているとしか思えなくなって
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非常に興味深く読めた。
一点目。本書はEUの誕生を予言している。本書で著者が熱望しているヨーロッパの統一国家は 現在実現に向けて進行中である。かねがね なぜ EUのような大きな発想を欧州が持ちえたのかと思ってきたが本書は その一つの答えとなった。更に言うなら 著者が称賛している通り カエサルに その源流があると考えても良いのかもしれない。EUのデザイナーとして カエサルがいるという歴史は 流石に世界でも追従を許さないと考えざるを得ない。そう考えることで 例えば塩野七生の仕事が今の欧州を理解する為に死活的に必要なのかもしれない。
二点目。これは誰しも思うと思うが 本書で著者が描き出している「大衆」とは そのまま現代の日本の状況を予言している。「自分たちが喫茶店の話から得た結論を社会の強制する」であるとか「人々は政治的に その日暮らしである」という姿は 今の日本の政治の混迷ぶりに恐ろしい位に重なる。オルテガが本書を発表したのは1930年であることを考えると いささか空恐ろしい次第だ。
三点目。ソ連の誕生とマルクス主義は別物であると喝破していると読んだ。2009年に それを解説することは比較的容易だが 1930年に それを言いきることは難しい。これも 結果として著者の慧眼を示す一例である。
ということで 流石名高い一書であると感じ入った。
おもしろい!
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人文系を学ぶヒトは読んでおいたほうがいい気がします。
実際、読んでたときに「無知の知」というフレーズが頭に連想されたこともあったし、
教養ある人とはどのような人間かを自覚するには、私は最適と思います。
高校生でも読める平易な日本語なので、歴史と思想の教養があれば
非常に面白いと感じるものと思います。
「動物化」も大衆化の一種か
★★★★☆
聞くところによると、日本語で「モダニスト」と呼ばれているのと「近代人」と呼ばれている者はどうやら意味が違うらしい。両者は同じ「近代」という言葉から派生していながらも、前者が自らの意志において行動、探求し他者を良き道に啓蒙しようとするのに対して、後者は先人たちの積み重ねによって自分が得ている恩恵に対して無頓着であり、自己の中にいつまでたっても安住しているどうしょうもない輩のことなのだそうだ。
つまりは本書でいうところの、著者であるオルテガ・イ・ガセトがモダニストであり、彼によって罵倒されている大衆こそが近代人、ということになろうか。
本書は、第一次世界大戦後のヨーロッパにおいて、科学技術の発達にともない不可能なことがほとんどなくなり、かといって「今」が歴史の頂点だと思えない、選択肢と可能性の渦の中に巻き込まれた大衆が、自らに権利だけを主張して野放図に生きる、その名も「大衆の反逆」を描ききる。
彼によれば、根本的には生まれた階級の問題ではないらしい。貴族に生まれようと、親から地位を受け継いだだけの世襲貴族であれば大衆同様、自らに安住している点で同罪なのである。貧富に関わりなく、「高貴な人」のみが大衆を扇動すべき支配者たり得るのだ。その点、成長と拡大を止めた国民国家という政治形態も、彼の批判の矛先に上がってくる。
オルテガは特に祖国、スペインに対する危機感は相当なものらしく、たびたびその体たらくぶりが論題に上がる。冗談ではあると思うが、スペインに訪れ街ゆく人に道をたずねると教えてくれるのは彼らの親切心からではなく、あれは皆、行き先を見失っているので、誰かに行き先を告げてほしいからだという。それぐらい当時の大衆とは、「右にならえ」の「平均人」の群衆だったのだろうか。
ただ、第二部の「世界を支配しているのは誰か」という共同体論では、支配者を失った世界において、もう一度ヨーロッパが君臨するということが説かれているあたり、どうもエスノセントリズムが透けて見えなくもない。
訳者があとがきでいうとおり、本書でオルテガが憂う社会の状況は、現代日本の状況と似ていなくもない。「いかに人生を全うするか」という指針すらなく、「歴史の終焉」のまっただ中でただなんとなく「生」を垂れ流している我々を、東浩紀は「動物化」と称したが、オルテガに言わせれば大衆と何ら変わりないのだろう。