西洋哲学史について 言葉の限界
★★★★☆
長い旅だった。古代から近世への流れを描き出した前著とあわせて読んだことになるが、両方あわせると長い時間だった。岩波新書2冊分とはとても思えないような重量感だった。
近代から現代へのこの2冊の目の著作の最終章でウィトゲンシュタイン、ハイデッガー、エマニュエル・レヴィナスについて語りながら、熊野は倫理についての言葉を残している。
「無でも、非存在でもなく、世界のなかでは不在であるもの、存在とはまったくことなる他者について、語られなければならない。他者が『語られたこと』に回収されるなら、それはもはや他者ではないだろう。『語られたこと』を越えて、なお『語ること』が継続される必要がある。語られたことを打ち消して、語りつづけられることが必要なのである。−そうしたこころみが、完結した書物となることは、禁じられていよう。ウィトゲンシュタインがそう語っていたように、決定的なかたちで倫理を語りだす『その本は爆発して、世界に存在する他のすべての書物を焼き尽くしてしまう』ことだろう。」(p258)
西洋哲学史は、書かれた言葉についての歴史であることから逃れられない。
しかし哲学は元来、人間と世界の境界線を、その境界線の向こう側を凝視しつつ行きつ戻りつする言葉なのではないか。また同時にその見えない向こう側と同じように見えないものが、その境界線のこちらがわに、私の思考そのものにこびりついているのではないか。言葉はそのこびりついたものもまた同時に凝視している。
であるとすれば、哲学史は哲学者ごとにほのみえる境界線を探りながら書かれた言葉の内部に自己をとどめようとする苦行なのかも知れない。だからこそ熊野は、その内容的に極めて浩瀚なこの2冊の著作を語り得ぬものを展望する地点で終わったのではないだろうか。そしてそこに微かな倫理の姿を望遠しようとしているのかもしれない。私にはそのように思えた。
全体的には満足・・・
★★★★☆
他の方々と似た感想だが、前巻(古代中世編)に比べると今一つメッセージが伝わって来ないというか、膨大な内容を纏め切れていない気がした。近現代の哲学を新書一冊に纏めること自体難題なので仕方がないだろう。全体的には目配りが効いていて入門書としてお薦めできる本。
もっと大部の入門書を書いてほしかった
★★★★☆
う〜ん,ちょっと読みにくいというか.原典からの引用が多いというのは面白いし,ところどころ「へ〜,そうなんだ」というところもあって勉強にはなったのですが.
どうも初心者向けのつもりでは書いてませんね.しかしそれならそれで,新書ではなくて,もっとずっしりとした単行本で,一人ひとりの哲学者についてもっとくわしく書いてほしかった.新書ならもっと軽く書いてほしい.微妙に中途半端な観が否めない.
西洋哲学史後編
★★★★☆
後編は17世紀から20世紀まで哲学史です。
その哲学者が問題としている多くのことの中の一つを取り上げ、
丹念に哲学史を記述していると思います。
おのおのの哲学者の時代背景についてもう少し言及がほしかったです。
また「哲学史」を通して、筆者は「今」をどう見ているのか、
どう考えているのか、について述べてほしかったです。
上巻は硬質な素晴らしい文章が見られたのに、今回は説明するのに一杯いっぱいという感じも…
★★★★☆
2章のスアレスの『法律について』は社会契約論の萌芽があり、19世紀のラテン・アメリカのスペイン独立戦争や解放の神学にも影響与えたといいますが、《個体が個体である場合には、それが他のものではないこと、この「否定」がなりたっている》(『形而上学討論集』)という引用は本全体の通奏低音。3章のロックで、知識を可能とする知性はunderstandingだというのはわかりやすかった(p.43)。6章に引用されている《人間は、「思考する、知的な存在thinking inteligent Being」であって「継続する持続」continuned Duration》だという『知性論』も含めて英語ってわかりやすいというか簡明。ヒュームの黙約conventionの同意が正義論の根底をなすものと考えたのは、社会契約論という挙行に対する批判であり、遺稿を託されたスミスが『国富論』で交易し交換する人間の本性について語る背景には、こうした核が隠されている(p.105-)というのは勉強になりました。
カントに関しては《人間の自由は、すこしも秘密ではない。それは道徳法則の存在によって知られる。だが、自由の根拠は探求されえない。それは認識には与えられない「秘密」Geheimns」であり、人間にとって一箇の知の深淵なのである》(『宗教』)という引用が印象的。ヘーゲルに関しては「同一性と非同一性の同一性」について『論理学』によりかかって説明していきますが、そこ書くんなら精神現象学にもちょっと触れてよ、みたいな。