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呪の思想―神と人との間

価格: ¥1,890
カテゴリ: 単行本
ブランド: 平凡社
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あなたの書棚にある漢和辞典をもっと利用してほしい ★★★★★
白川静の漢字理論について何一つ異論を述べるつもりはない。異論を述べたいのは白川静ではなくて、白川静の無数の漢字に関する著作物を読んでいる読者の方である。30年以上前と違って、今では白川静は漢字の権威になったからだ。(梅原猛はこれを認めすぎている。)彼の著作物を読む読者が、だれでも自分のもっている漢和辞典の解字の説明と白川理論を比較しないのにはあきれる。大部分の読者は自分の書棚にある漢和辞典なんて年に5分ほども見たこともない。皆、白川静の本を見れば、漢和辞典なんて見る必要がないと思っている。何よりも漢和辞典では漢字の歴史・文化・構造といった総論が述べられていないから、例えば辞典の中で解字と言われても理論の根拠が不明だと考えている。だから漢和辞典より白川静の方が必要十分となる。しかし物事の本質は、白川静と漢和辞典の記述や藤堂明保の理論のどれが正しいかではなくて、彼らの間に違いがあるのかないのかではないだろうか? 正しいか正しくないかなら皆、同程度に正しい。総論・各論で言えば、たとえ彼ら(漢和辞典の著者らも含めて)が表面的には互いに他を反駁しあっていても、俯瞰された視点からは総論として同じなのではないか。すべてのこの問題の原因は、白川静の著作物の読者の怠惰にある。じっくり白川静と異なるか、あるいは中立の意見をもつと推測される著者の言うことに耳をかさないことからくる。あるいは自分で白川静と自分自身も含めた他者の違いを探る努力をしない。ところで本人たちはそう思ってないかもしれないが、総論賛成・各論反対の世界が漢字理論ではまかり通っていると思う。これが17世紀のオランダの画家・フェルメールの科学(特に光学物理)の理解の仕方と、あくまでも寓意としてだがある種の共通する面がある。ある意味で科学の理論が故意に捻じれて画題に反映されている。このフェルメールについて詳しくは、「宇宙に開かれた光の劇場」上野和男・著を読むことをお薦めする。この本では漢字を記号論に飛躍させて西洋絵画との関係について述べている。
編集が・・ ★★★☆☆
漢字の構造そのものから「呪」の思想を取り出す白川静と、
近年は長江文明の研究に力を入れる梅原猛の対談とあっては、
これはもう面白くならないわけがないのだが、
エディシオン・アルシーヴなる集団の編集ぶりが、
どうにも小うるさく感じられてならなかった。

たびたび差し挟まれる写真そのものは悪くないのに、
そこに付された文章はというと、
思い入れたっぷりな悪文の見本というか、
正直、箸にも棒にも引っかからないような代物で、
せっかく二人の対談で盛り上がっているところに、
要所要所で読みたくもないものを無理やりに押し付けられて、
残念ながら、だいぶ興を殺がれてしまった。

梅原猛に白川静の話を聞いてもらい、
それを一冊の本にまとめようという企画は、
おそらくこの集団の発案になるものだろうが、
企画そのものは素晴らしいのだから、
あとは二人の話の魅力をいかに引き出すか、という
黒子としての役割に徹するべきであって、
半ば表現者気取りで自分たちの色を出そうとするのは、
完全に心得違いと言わざるを得ない。猛省を促したい。
文字を媒介として過去を知る ★★★★☆
白川静と梅原猛の対談です。梅原猛が聞き手になって白川静の仕事と思想を聞き出しています。■白川氏によれば「文字の中に形象化された、そこに含まれている意味というものを、その時代のままで、今我々が見ることができる訳です。だから三千年前の文字であるならば、その三千年前の現実をね、見ることが出来る。」■文字は神との交流手段として生まれた。古代は悪霊がいっぱいいるシャーマニズムが濃厚な世界だった。なんでもないような文字も全部神や霊や呪などと関係がある。たとえば「道」という文字は、「支配の圏外に出るとき、異族神を祓うために、生首を持って進む、という字形だ」など。■話が面白いので、つい受け売りしたくなると思います。
面白い古代史本 ★★★★☆
中国古代を文献から追求している白川氏と、
遺跡を発掘している梅原氏の対談。共に第一線で
活躍している方だけに、話は臨場感があって素晴らしい。
いつもは難解な白川氏も、話はえらく分かり易い。
・・ただ、話が余りにも面白すぎてそれが本当かどうか分かりがたい
のが難点といえば難点。
百済慣用語がかなを産む ★★★☆☆
別冊太陽が特集した「白川静のすべて」に掲載された梅原猛聞き手の対談を「呪の思想」と題して出版された。

呪には、ふたつある。ひとつは、大和王権という武力勢力によつて侵略占領された日本列島先住民の怨念であり、ひとつは、韓半島での新羅制覇によつて百済・高句麗からの逃亡渡来人となった人たちの怨念である。かなが日本文化の独自性をあらわしてきたといわれ続き的たが、今回の対談で、白川は「かなは百済慣用句からうみだされたものだ。」と発言。あらためて、渡来人たちの日本文化形成への寄与を確認することとなつた。はたして、かなは哀しみか、それとも、呪の隠蔽か。
 単行本になつて妙に編集者の登場の多いことが気になる。実際に三人で話したとしても、ふたりの対談としてしあげてい!!!くことが編集者の任務ではなかろうか。この編集者には中井英夫「黒衣の短歌史」の精読をおすすめする。

 最後に、「プロレタリアートの開放」という誤植があり、対談で語られた高和巳も30年以上の歳月を噛みしめたのではなかろうかと、想いを重ねたしだいである。