現代の坊さんはこんなの読んでもどうなんかな?
★★★★☆
道元の直弟子である懐弉(えじょう)が教えを聞いて筆録した本書は、出家した禅僧へのメッセージであり、心得の書であり、指針であり、弟子たちの疑問への透徹した教示、説教の書である。が、数百年後の現代に生きるわれわれ一市井の仏教徒がどうこの書を受け止めればいいのだろう? 禅仏教の理念と理想を説く道元=懐弉のことばには禅僧への叱咤激励が含まれている。昔の禅僧は今と比べられないほどの厳しい修行があったであろう。
禅僧でもないわれわれが今この書を手にする意味があるとすれば、たとえば、道元=懐弉のことばを、一禅僧になって虚心坦懐に耳を澄まして聞くことだけだ。想像の中で一禅僧になったわれわれは道元=懐弉のことばのひとつでもふたつでも噛みしめてみる。心の中になにか残ればいい。何かが移ればいい。そうして本を閉じて今の自分に戻ってその移り香の余韻を再び心に響かせてみる。道元=懐弉の時代ははるかに遠いけれど、しかし現在とけっして切れてはいないことが解るはずだ。
ますます自己省察を疎んじ、欲望の中に墜落するほかない現代人にとって本書は自分をあらたに見つめなおすきっかけになるだろう。
山崎正一氏の現代語訳も読みやすいし、格別難しいことが書かれているわけはないので、素直に読まれることをお勧めする。
もしこれが物足りないという読者なら直接道元の「正法眼蔵」を読まれたほうがいいかもしれない。これは出家、在家の区別なく万人の心の奥にじかに訴える力を持った深甚な書であるので是非読まれたい。評者も今読んでいる。
道元の思想を知るには、まずこの一冊から
★★★★★
道元の弟子が道元の言葉を記録した本ですが、道元の思想がコンパクトにまとまっていて、
彼の思想に触れる最初の一冊としては最適だと思います。
原文も載っていますが、訳だけ読めば数時間程度で読み終えられるでしょう。
もちろん、正法眼蔵の方が道元の修行にかける熱い気持ちはストレートに伝わってくるので、
この本で興味を持てば、正法眼蔵に読み進むことを強くお勧めします。
「只管打坐」に代表されるように、道元は寡黙でストイックな修行僧のイメージが一般的だと
思いますが、正法眼蔵では他宗に対する厳しい批判も多く、実は感情の激しい人だったことが
伺えます。
まだ読める方の本。
★★★★☆
速読したので本書を十分味わえなかっつた。
これはひとえに私のレベルの低さにより、本書の責任ではない。
まだまだ本書を語る能力がない。
類似の本の中ではまだ読める方である。
その理由は著者が決して聖人ではなく、私たちに近い存在だからだろう。
もっと時間に余裕をもって再読したい。
「正法眼蔵随聞記」で僕の読書遍歴も終わる...
★★★★★
高校を卒業したあとぐらいから
数々の本を読んできましたが、とうとう僕の
読書遍歴も終わりを告げそうです。
いままで僕は本を乱読してきたきらいがありますが、
この一冊に出会ったので、(大げさに言えば)
もうこれ以上読書をする必要がなくなりました。
この一冊
「正法眼蔵随聞記 / 水野弥穂子 訳(ちくま学芸文庫)」は
これからの僕の人生のバイブルになっていくと
強く感じました。
正法眼蔵随聞記講話 / 鎌田茂雄(講談社学術文庫)を
先日読んだときにも感じましたが、
今回は更に数多くの道元禅師のことばや思想に
直接触れることができ、心臓に突き刺さるかのような
鋭く激しい衝撃を受けました。
「ただただ飢えを忍び、寒さに耐えて、ひたすら仏道を学ぶべき。
ただひたすら坐禅せよ。(只管打座/しかんたざ)」 に始まり、
「いたずらに俗事に心をわずらわせてはならない。
身も心も命も捨て去るべきである。
万事を捨てて、ひたすらに一つのことを身につけよ。」
「わずかの時間も惜しまなくてはならない。
明日をあてにせず、今日ただ今だけと思って、行じよ。」
「財宝は死をのがれさせてはくれない。」
などなど、
数々の激烈で、ストイックな言葉が
800年の歳月を超えて、僕の心臓を直撃してきました!
宗教としてではなく、
にんげんの生き方という視点から実に刺激のつよい本でした。
これからは余計な本はあまり読まずに
このバイブルを何度も何度も繰り返して
紙が擦り切れるまで読み込んでいこうと思いました!!
特にまだまだ若い僕にとって
自力で道を切り開くという自力本願の教えは超気持ちがいいです。
自力で悟り(心の平安)を開けるように
もっともっと頑張っていきたいと思いました。
この「正法眼蔵随聞記」は
文暦元年(1234年)から嘉禎年間の4年間のことが書かれている訳でして
道元(どうげん)は 35歳〜39歳、
この随聞記の著者である懐奘(えじょう)は 37歳〜41歳
の頃のメモリアルでもあるのです。
平成19年、僕村内伸弘は 39歳。
この随聞記の頃の道元禅師、懐奘禅師と
ほぼ同じ年齢に差し掛かっています。
最後に一言
無常迅速なり、
生死事大なり
不昧因果(ふまい・いんが/因果をくらくしない)
★★★★★
やはり南泉斬猫のエピソードが最も考えさせられます。
中国の有名な禅的エピソードに対する道元風の解釈を伝えるくだりです。
昔、中国のお寺で一匹の可愛い子猫を若い修行僧たちが取り合いっこしていたんです。
そこに南泉(なんせん)という偉い禅師が通りかかって「お前たち、何をしておる、
釈明せいっ」って怒ったんですね。ところが誰も何も答えれなかったんで、南泉和尚
は信じられないことに、この子猫を刀で切り殺してしまったというのです。夜になって
一番弟子のお坊さんが用事を済ませて帰ってきて南泉禅師からコノ出来事を聞かされます。
「君が居てくれたら猫は死なずに済んだのになあ」と師匠に言われた高弟は、何も答えずに
履いていた靴を自分の頭に乗っけて部屋から退散した。と、まあそんなエピソードです。
コノ話をネタに「道元先生、動物殺しちゃって良かったんですか?」って聞くわけです。
道元は南泉の行為を可とも非とも答えていません。靴を頭に乗っけた高弟のリアクション
にも明確な解説をしていません。ただ道元は言います。
南泉師はね、子猫にこだわって争っていた若い衆にコダワリを捨てさせることを教えたんだ
と思うよ、と。原因と結果のセットは原因が先で結果が後だと思うでしょ、でも違うよ。
原因と結果は同時に発生するものなんだよ、とも。
人生の選択を振り返って「アア、あの時、ああしておけば良かったのに」という後悔は誰に
しもあろう。けど、選択をした時点で答えは出てしまっているのですね。
あれこれ後悔したり、あるいは喜んだり。我々の営みは結局のところ「子猫を奪い合う」行為
の連続に過ぎないんだね。
どの年代の読者にも年齢なりの示唆を与えてくれる生き方応援書。
随聞記読むと、すっごく元気がでますよ。