デビュー・アルバム『サイレント・アラーム』がNMEの「Album of the year」を受賞するなど、名実共に2005年最も成功を収めたUK新人ロック・バンドのセカンド・アルバム。プロデューサーにU2やスノウ・パトロールを手がけたジャックナイフ・リーを起用した。
2007
★★★★★
05年に発表した1stアルバム『サイレント・アラーム』でNME誌の年間最優秀アルバムに輝いた彼らが、07年3月のジャパン・ツアーを前に届けてくれた本作。テクノロジーを駆使した無機的な要素と生演奏のオーガニックな要素が巧みに融合されたサウンドをバックに、ケリー・オケレケの歌詞を聴き取りやすいエモーショナルな歌声で聴かせている。人種差別問題などに言及していることもあって、作品のテイストはヘビーだが、情熱的で真撃なアティチュードが、ポジティブな意志を伝えてくる。耳慣れない響きでリスナーの耳を惹き付ける手際が見事だ。
小難しく考えずに
★★★★★
メッセージ性や複雑化したリズムに話題が行きがちだが、
1stとはやや趣の違うポップミュージックとして十分に聴けるアルバム。
ギターリフの独創性、キレ味の鋭さや、タイトで手数の多いドラムはもちろん目立つし、
何よりサウンドの雰囲気を決定付けるベースも見事。
彼らの一つの到達点である"hunting for witches"や、
叙情的アンセムの変異体"waiting for the 7.18"、
大ヒットソング"I still remember"など、聴き所は多い。
0〜100まで全部いいというわけではないが、
Arctic Monkeysの2ndと比べたって、決して引けを取らない作品であることは間違いない。
Bloc Partyの包容力
★★★★★
冒頭は印象的なギターリフでガンガン押してくる今作ですが、まず前作との違いを挙げるとすればやはりドラムビートがガラリと変わったことでしょうか。
前作ではとにかく性急で攻撃的なビートを刻んでいたドラムが、今作では時に単純で、また時に繊細なものへと変わっています。
たぶんこの辺がダンスミュージックへの更なる接近、みたいに言われるゆえんなんでしょう。
またそれに伴って(?)アルバム全体の雰囲気もだいぶ前作とは異なったものとなっています。
M1、M2、M7などアップテンポで押してゆく曲もあるにはあるのですが、今作ではやはり前作以上の名曲がそろったしっとり系ナンバーがメインになっています。
特にラスト4曲の流れはもう涙なくしては語れないというくらいに切なく、繊細なナンバーが揃っています。その中でもやはり“Sunday”はツインドラムという特徴以上に、オケレケの声の魅力が存分に発揮された名曲と言えるでしょう。
また、M3やM5、M7など、今回は曲展開が凝っているナンバーが多いのも特長です。特に“Uniform”は初めて聞いた時には鳥肌が立ちました。
このあたりもやはりプロデューサーが変わったのも大きいとは思いますが、それ以上に4人が順調に音楽的な成長を遂げていることの表れなのではないでしょうか。
前作がBloc Partyの尖っていて攻撃的な側面を全面的に押し出した作品だとするならば、今作はBloc Partyのすべてのものを優しく包み込んでしまうような穏やかな側面の方が存分に生かされた作品であるといえるでしょう。
加えて、広がりのあるソングライティングを身につけたことにより、今までになかったパターンの名曲たちが数多く生まれ、それらと穏やかな楽曲、それにアップテンポの楽曲たちまでもががっちりとアルバムとしてまとまったことで、このアルバムは文句なしに傑作と言えるクオリティに仕上がったのです。
週末の終末感
★★★★☆
冒頭“Song For Clay(Disappear Here)”の重苦しい展開。Bloc Partyというバンドをかなり過小評価していました。Museの名曲"New Born" のような揮発性を持っていながら、目の前の相手を撃ち殺そうとしたら銃が暴発してしまったかのような解放感の無さ。そして冷ややかな演奏と「Oh〜How Our How Our」と歌われるサビのラインの絶妙な調和。彼らの存在は食わず嫌いなまでに避けてた感があり、ごめんなさいって感じです。
今作は「週末の都市(彼らで言えばロンドン)」に渦巻く欲望、享楽、怒り、孤独といったキーワードを全て取り込んでやろうという、かなり野心的かつコンセプチュアルな作りとなっています。
とは言え社会派気取ってそんな現状を糾弾するわけでもなく、あくまでここにあるのはそんな社会の一員である自身が日常に押し潰され、蓄積されたフラストレーションに火がついて暴発したような、パーソナルな不機嫌さです。それが複雑なリズムパターン、幾重にも積み重ねられたシンセを以って聴き手に迫ってきます。膨大な情報量を一つの作品に仕上げなければならなかったほどに、フロントマンのケリー・オケレケの怒りや徒労は達していたのだと慮られます。
そういう意味で「聴いてると死にたくなる」アルバム。それはきっと、この作品が現実からの逃避をもたらすような、ポップ・ミュージックが抱えてしまう刹那な快楽性を拒否しているからで、同時に渋谷を歩きながら聴いていてシンクロするような、私たちの日常に肉薄するリアリティを持ち得ているからです。
これは近年雨後の竹の子のごとく出てきたUKバンドの姿勢とは一線を画すものだと思うんですね。我を忘れるほど享楽に甘んじたいと「願う」“The Prayer” など、逆にそんなシーンに馴染めないことを吐露してしまっているだけですから。こんな暗い曲で、彼らはシングル切ってしまっているわけです。
と、重層的なサウンドを持った良作でありながら、ちょっとギターのフレーズに独創性が乏しく、ヴァリエーションに欠けるのが残念ですが、それが安易なカタルシスの排除に与している側面もあり、納得はできます。
それにしても、同じようなシリアスな表現が、ロンドンより巨大な都市である東京から出てきてもおかしくないと思うんですが、どうしてなんでしょう、いっつも思うんですが日本のバンドは「僕」と「あなた」の間に「社会」が抜け落ちてしまいがちです。
「ストレス」から「表現」への覚醒
★★★★★
今だったら「フランツ以降」「アクモン以前」の価値観で区切ることのできる、イギリスで04年から始まった怒涛のギター・ロック復権現象。「第二次ブリットポップ」なんて呼ばれるだけあって、フランツ然り、カサビアン然り、レイザーライト然り、やはりお祭り特有の華やかさがあった。だからこそ、今振り返ってみるとブロック・パーティーの『サイレント・アラーム』のシリアスさだけは明らかに異質だったし、お祭りのノリにどうしてもついていけない真面目っ子みたいに、周囲から孤立していた。その尖りまくったシリアスさや表現のアブストラクトさ故にのっぺりしたニヒリズムを気取ったただの学生バンドという批判もあったが、セカンド・アルバムとなる本作を聴けば、ブロック・パーティーがただ一人御輿を担がなかった理由は一目瞭然だろう。バンドの支柱であるケリー・オケレケが本作について「自分が何を意図しているのか、完璧にわかるようにしたかった」と答えているが、それはまさに前作への痛烈な自己批判だったし、だから本作で彼らは自分たちのフラストレーションの在り処とその矛先を明確に示す必要があった。そのために自分たちの個人的すぎる経験や実感を暴露することにさえ、まったく躊躇というものを感じていない。9.11や05年のロンドン・テロ以降、そのギリギリの社会情勢と何事にも無関心な町の一角との狭間で自分たちはどれほどに苦悩を強いられたか、ブラックの血を受け継いだケリー自身が実感として知っている差別されることの居心地の悪さとは如何なるものか、ファッションという名の下に多くの若者が画一化されていく中で取りこぼされていく自分――そんな赤黒く燃え上がる生活の一場面を「ある町のウィークエンド」として僕たちの日常にまで引きずり落とした、ジャンルやシーンなんて概念すら脇に寄せてみせる大飛躍作である。上に挙げたバンドたちはセカンド・アルバムで一連のムーヴメントからそれぞれ自力で巣立っていったが、ブロック・パーティーの場合そんなことすらまるで関係がない。ムーヴメントというお祭り騒ぎには近づけないし、差別はされるし、同世代の人たちは自分のことなんて理解してはくれない――でも、そうやって格別され、孤立することこそ自分たちが「表現」へと向かうモチベーションであり、そこからくるシリアスさが自分たちを更に孤立へと追いやる。そんな終わらないサークルの中でもがき続けるバンド、ブロック・パーティー。それでも、「今」を許さないことをお前たちは止めるな。