たとえば、日本人の死生観について「日本人は、復活や輪廻を信じてもいないし、現世中心主義に徹するほど合理的でもないので、なんとなく死後の世界があるような気がしている。未開社会にはよくあるタイプの感覚ですが、文明国にしては素朴すぎます」というのだが、宗教文明圏の現状を見ていると、日本は「未開社会」でよかったと思うことが多い。中東ではイスラム教徒とユダヤ教徒がテロと報復の悪循環から抜け出せないでいるし、和平合意が成ったはずの北アイルランドではカトリックとプロテスタントが相変わらず爆弾を投げあっている。コソボ紛争は東方教会系セルビア人とイスラム系アルバニア人の、カシミール紛争はヒンズー教とイスラム教の対立である。アフガニスタンではイスラム原理主義が貴重な世界遺産を爆破し、スリランカではヒンズー教徒が自爆テロを繰り返し、インドネシアのアンボンではキリスト教徒とイスラム教徒が殺しあい、ロシア正教会のロシア人はチェチェンのイスラム教徒を爆撃している。
本書は「日本人はイスラム教を戦闘的だと思っているが、戦闘的だったのはキリスト教のほうなのです」と教えてくれる。しかし、宗教文明圏は見てのとおりの修羅場を現出しているのだから、この際どっちが戦闘的かは、どうでもいいことである。いったい宗教とは何なのか? 宗教は「社会構造の中でも、もっとも重要な社会構造である」と著者は言うが、それなら20世紀の世界の半分を支配した共産主義も宗教ではないのか? 中国共産党の「法輪功」弾圧も宗教間対立として、つまり宗教社会学の立場から説明してほしかった。もちろん、それがなくても、この本は宗教抗争の背景を理解するのに役立つ解説書である。(伊藤延司)