端坐するということが目的であり、それ以外に目的はないし、また終わりもない。
★★★★☆
「普勧坐禅儀」は言うまでもなく、坐禅の心得、要諦を誰にでも分りやすく説いたものである。分りやすいが、その奥義を捉えきることははなはだ難しい。劈頭、「・・・仏の教えは、本来、ありとあらゆるところにゆきわたっているから、ことさらに修行やさとりなど必要はない。仏の教えは、自在にあらわれているのであるから、修行に精進して求める必要もない。」
坐禅によって何かを得ようとすれば、かえって得られない。己から進んで求めていくのではなく、ただ待つ、ひたすら向こうからやってくるのを待つだけでいい。己の身心を脱落させ、己の我を限りなくゼロの近づけること。何もしないこと、これが奥義なのかもしれない。ただ向こうからやってくるものを受けとめる条件を整えることが大切なのだろう。
そうすれば、「内なる根本的な心のはたらきに光をあて、そこを見つめよ。そのようにするとき、自ずから身心のとらわれが取り払われ、人間本来のすがたが仏のはたらきとして現れる」という。
端坐するということが目的であり、それ以外に目的はないし、また終わりもないわけである。
重みのある言葉が凝縮された一語一語を咀嚼して読まれることを、とくに本文6ページにしかすぎない「坐禅儀」だけでも坐禅入門者にお勧めしたい。