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無宗教からの『歎異抄』読解 (ちくま新書)

価格: ¥735
カテゴリ: 新書
ブランド: 筑摩書房
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歎異抄から入初地へ続く道 ★★★★★
著者は、“「無宗教」を標榜する人間の気持ちの中には、既成教団に対する強い不信感と、それゆえに特定教団の信者になること(i.e. 宗教的決断)への強い抵抗感がある。(p.11〜12)”と指摘し、“そうした「無宗教」の人間に「阿弥陀仏の本願という救済原理」を説く『歎異抄』の教義が必要だ。(p.15)”と説く。
そこで、“法然以前の仏教では、「聖者」が中心であった。難行・苦行を経て、生・老・病・死という苦しみの世界から脱却して自在な世界に到達できる、と信じられてきた。だが、法然は、それまでの仏教が教えてきた数々の修行に堪えることが出来る「聖者」は、極めて例外的な存在であった。(p.29)この「聖者」に対する言葉が「凡夫」であった。教えに従って修行し、やがて悟りを得るという「聖者」に比べると、教えの理解力も劣り、修行に必須の意志力にも欠ける、できの悪い人間が「凡夫」と言われてきた。(p.28)だが、法然は、人間は誰でも「凡夫」に他ならない、と気づいたのである。「聖者」に対比される人間のあり方が「凡夫」なのではなく、およそ人間とは誰であっても「凡夫」と言うしかない、という認識が法然による新しい仏教の発見につながってゆくのである。(p.29)”という一つの仏教史観を前提として、法然と親鸞の仏教の本質である在家仏教が21世紀にも有用であることを述べている。それは大いに参考となる。

ただし、前提とした仏教史観を今一度、見直すことも必要かと思われる。なぜなら、ブッダ釈尊が説いた最初の聖者である「預流(シュダオン)道」に「凡夫」が前進する条件は「ブッダ釈尊の悟りの真義に心から気づく(確信する)こと」だからである。つまり、「聖者」とは四苦八苦を脱却する前に到達できる境涯であるから、決して例外的な存在ではないのである。そのことを龍樹は、『十住毘沙論』で“(シュダオン道に対応する)入初地”に入ることの大切さを力説し、入る直前のためらいを難行道、入った瞬間を易行道と述べた説法に注目する必要がある。
読みやすかった ★★★★★
大変読みやすかったです。
実際の勉強会をもとに内容を記述してあるだけあって、「無宗教」の人はどこを知りたいのか、という点にきっちり触れてあり、良かった。
歎異抄に関する本はたくさんあるけれども、最初に読む本としては、これが一番だと思います。
ぎりぎり宗教論 ★★★★☆
宗教に特別な幻想を抱いてはいないけれど、なお、ふつう以上の「価値」を求めてる人のための本だろう。別に「無宗教」でも生きていける、それは間違いない。しかしながら、ふと余った時間の、ついついもの思いにふけってしまう瞬間に、自分の人生と、やがてくる死について、少し真剣に考えるためのきっかけが欲しい、と、そう考えることがある人なら、やはり『歎異抄』。そして、阿満さんの読み方・説き方は、なんというか、とても清潔でストイックで、圧倒的な「信心」を感じはするけれど、わりと抵抗なく読めるのでいい。すごみはあれど、威圧感はないのだ。
「道徳に敗れた人間が『歎異抄』の主人公」である、というのが基本的なテーゼになっている。どんなにがんばっても、「世間」の基準でうまくやりきれない。いや、周囲の人からみれば「ふつう」なのだけれども、自分で自分の行動や考える事に、「ふつう」から外れるもの、負い目を感じてしまう。そういうところから出発して、決して揺るがぬ「幸福」とか絶対の「救い」とかではない、しかしできるだけ確かな「価値」をつかんで、ちゃんと生きるための場所にいたる。そうするための小さなヒントが、本書にはちりばめられている。
宗教っぽくない。歴史書っぽくもない。 ★★★★☆
著者は、日本人の宗教観についていくつか著作がある。その著者が、「無宗教」という言葉を冒頭につけての本。どんな内容だろうと思って読んだ。
歎異抄の内容を、親鸞の周囲の人間関係や、歴史的背景、今の日本人の宗教観などをふまえて、解説されている。
ふむ。なかなかおもしろい。腑に落ちる点もいくつかあった。
この本では第3,4章で他力本願という前向きな姿勢や信じ切るという常識を越えた宗教心をしっかり述べている。
他力本願という言葉が、誤解を持って用いられることになれきってしまっている今、この文章を読むと新鮮な気がした。実は、悪人正機の説明にはかなり刺激を受けてしまった。
歴史や宗教の背景を知った上で歎異抄の本意を知りたいと思った人向けの、手頃な入門書になると思う。