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スポーツを考える―身体・資本・ナショナリズム (ちくま新書)

価格: ¥735
カテゴリ: 新書
ブランド: 筑摩書房
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かなり知的なスポーツ論 ★★★★☆
高名な思想家による知的なスポーツ論。
社会学者ノルベルト・エリアスなどの論を軸に、英国で近代スポーツが生まれた背景や、それが米国に渡り、アメリカナイゼーションされていった過程などをたどります。
元来、歴史上の非暴力化の過程(議会政治の始まりなど)と呼応する形で生まれたスポーツが徐々に存在感を高め、「社会の方がたまたまスポーツに触れることで可視的な集合の形式になりはじめているのではないか」と多木氏は主張します。スポーツと社会の「関係の反転」などを描いたあたりは読み応えたっぷりです。
スポーツを切り口に ★★★★☆
 著者は芸術学を出発点に、修辞学や記号論の立場から近現代文化を論じてきた人物。
 本書は、国民国家論、ナショナリズムの議論を越える現象としてのスポーツに着目し、分析してみせたもの。
 前半は、80年代以降のスポーツ史研究の動向をまとめたもの。近代スポーツの概念、スポーツがイギリスで発祥したこと、オリンピックの発生、アメリカにおけるスポーツの変質とメディア。先行研究の大まかな流れが見事に整理されており、これからスポーツ史を勉強しようという学生には有用だろう。いくつか疑問点も残るが。
 後半は、近現代スポーツをどのように解釈するかという議論。身体性、ナショナリズムとの複雑な関係が提示され、多木氏がスポーツに注目した理由が良く分かる。ただ、あくまでアイデアの提示という段階に留まり、もう少し踏み込んで欲しかったとも思う。スポーツ研究への導入の書としては充分なのだろうが…。
 多木氏の他の著作に親しんでいる読者には、ちょっと物足りないかも知れない。
むしろ、スポーツに関心のある人に読んで欲しい一冊だ。
エリアスに関する残念な誤解 ★★★★☆
本書が良書であることは疑いない。筆者はノルベルト・エリアスとミシェル・フーコーの理論を応用し、スポーツの歴史的展開の中に、近代特有の身体の成立とその暴走を見てゆく。基本的にこの分野では門外漢の芸術学者による著書だからこそ、スポーツ史家やスポーツ社会学者よる専門的な研究とはひと味違った、 読み応えのある身体論が展開されている。スポーツ史概論、あるいはスポーツ考察入門としてもよくまとまっている。

ただここでは一点、本書にある重大な誤解を指摘しておきたい。著者は、近代国家における非暴力化と近代スポーツ発生の関係を指摘するノルベルト・エリアスを、以下のように批判する。「(近代国家の安定は)実は国家による暴力の独占に依存していることに、エリアスは気付いていないのである。(P35)」 この批判はこの一文にとどまるものではなく、著者はこの「エリアスの暴力論の限界」を乗り越える形で本書終盤の議論を進めてゆく。

だがこれは、エリアスの著作に少しでも親しんでいる者なら、誰もが目を疑ってしまうような勘違いと言わざるを得ない。なぜならエリアスの主著『文明化の過程』の主旨のひとつは、まさに「近代国家の安定は、国家による暴力の独占に依存する」ということだからである。意地悪な例えを使うなら、著者の多木によるエリアス批判は「実は地球は回っているということに、ガリレオは気付いてなかったのである」というようなものだ。

これは明らかに著者の多木が、エリアスがスポーツについて論じた論文数編のみを参照し、彼の主著には目を通さないで本書を執筆したせいであろう。本書を手に取る諸兄は、この点だけは留意して読んでもらいたいと思う。もちろん、この誤りは本書全体の主旨とはあまり関連せず、よくできた案内書としての本書の価値を大きく損なうことはない。
スポーツから見た近現代史 ★★★★★
 1928年生まれの多作の芸術学者・記号論者が1995年に著した新書本。スポーツ史を本格的な知的対象にしたノルベルト・エリアスは近代スポーツを「文明化の過程」の一環として捉え、「野蛮な現実の模倣」としての古代スポーツとは異なる、規則に基づく「非暴力的競争」と定義した。しかし非暴力化が国家による暴力の独占と表裏の関係にある一国的な出来事であることを看過している点と、現代社会でスポーツ活動の過熱を促している力(資本)について殆ど考慮していない点に、著者はエリアス理論の限界を見、近代スポーツ史を振り返る。それ自体としては現実の根拠を持たない(=地方性の払拭、人為的)書かれた規則に基づくゲームとしての近代スポーツの原型は、都市と田舎を行き来する19世紀イギリスのジェントルマンが個別の地域を超えた規則の統一と制度化を実現する中で生まれ、まずはネイションを基盤として成立した。それゆえにそれは人格陶冶、フェアプレイ重視、規律・訓練を受けた優雅な身体などのジェントルマン的理念を帯びており、近代オリンピックもそうした理念を受けて誕生した。しかしスポーツのアメリカナイゼーションにより、スポーツは大衆化され、企業化され、メディアにより言説化され、選手はプロ化する。ここにおいてジェントルマン的スポーツ観は理念としては維持されつつも現実には失効し、身体的な技量の過剰な洗練化と勝敗へのこだわりが前面に出、また計測の精密化に伴い記録の精密な差異が追求される(記号化)。こうした中でドーピングが恒常化し、また暴力を制御してきたゲーム性の解体としてのフーリガン騒ぎが生じる。1970年代以降の性差の相対化は、男性の身体を想定した従来のスポーツ概念に転換をもたらし、身体の多彩な関係を生み出すと著者は見ている。最後にスポーツの現在として、著者はネーションの相対化(スポーツの個人主義化・国際化)、メディア分析の必要性を指摘している。