後世の仏教史に現れた様々な仏教思想の起源が、パ−リ律蔵『大品』である
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これまで、パーリ仏典『大品』は『南伝代蔵経 第三巻 律蔵』(渡辺照宏訳)と『ゴータマ・ブッダ』(中村元著)で読むしかなかったが、本書の分かり易い現代語訳と上記両書と対比した解説によって、ゴータマ・ブッダの説法が極めて身近なものとなった。
『阿含密教いま』(桐山靖雄著)のp.289に、“仏陀はニルヴァーナを定義せず、そのため大乗はそれを「空」であるとし、それに行き詰まると、「識」という実在的要素を伴う空であると変更した。ただし、弘法大師空海の真言密教はそれを「浄菩提心」とした。伝教大師最澄は「一心三観」と捉え、法然・親鸞は「阿弥陀仏の慈悲による極楽往生」と受け止め、日蓮は「妙法」と観じた。”とある。この指摘は必ずしも正しくないが、ある意味で核心を突いている。つまり、後世の仏教史に現れた様々な仏教思想は、パーリ仏典『大品』でゴータマ・ブッダが定義していない事柄に新たな名称を与えることが分岐点になっているからである。
一例を示す。
パーリ律蔵『大品』の「ヤサの出家」の項目では、“仏陀釈尊が在家の青年ヤサに「施・戒・生天」を説き、ヤサが業報思想を理解し、因果の道理を正しく信ずるようになると、四聖諦を説いた。その結果、ヤサに塵なく汚れなき真理を見る眼(清浄無垢の法眼)が生じ、初歩の聖者(シュダオン)となった。ヤサの父に対する同じ説法をもう一度聞いた時、執着を離れ、心が諸々の漏より解脱して、阿羅漢となった。”とある。つまり、釈尊の説法を聞いた瞬間に凡夫のヤサ青年が聖者(シュダオンや阿羅漢)のヤサ長老になったのであり、これが禅の頓悟や空海の即身成仏の起源であると思われる。
また、凡夫が自力でシュダオンや阿羅漢になるのだから、凡夫の中に凡夫を聖者に変える「何か」があると考えるのは至極当然である。その「何か」を如来蔵や仏性と命名したのであろう。現代風に表現すれば、凡夫には聖者.zip があり、因果の道理を信じる心というパスワードで解凍された聖者.exe がインストールされるとシュダオンとなり、執着を離れる心というパスワードで聖者.exe は仏陀.exe にアップデートされるかのようである。この聖者.zip を如来蔵・仏性と命名し、聖者.exe の機能の最終段階をゾクチェンと命名したと考えれば、複雑な仏教史のコンテクストがすっきりと理解できる。