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ブッダが考えたこと―これが最初の仏教だ

価格: ¥1,890
カテゴリ: 単行本
ブランド: 春秋社
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【セブン-イレブンで24時間受取りOK・送料0円!】 著者/訳者名:宮元啓一/著 出版社名:春秋社 発行年月:2004年11月 関連キーワード:ブツダ ガ カンガエタ コト コレ ガ サイシヨ ノ ブツキヨウ ダ ぶつだ が かんがえた こと これ が さいしよ の ぶつきよう だ、 シユンジユウシヤ 3064 しゆんじゆうしや 3064、 シユンジユウシヤ 3064 しゆんじゆうしや 3064 恐るべし。ゴータマ・ブッダの智慧。最も古い仏典の精読から、ブッダの思索の成り立ちとその核心に切り込む。「ゴータマ・ブッダの仏教」の真実とは何かを明らかにする、画期的論考。 第1章 輪廻思想と出家の出現-仏教誕生の土壌第2章 苦楽中道-ゴータマ・ブッダは何を発見したのか第3章 経験論とゴータマ・ブッダの全知者性第4章 修行完成者の生き方-ゴータマ・ブッダのプラグマティズム第5章 苦、無常、非我第6章 非人情、すなわち哲学
ブッダは何を考えたか。 ★★★★★
■ブッダは何を考えたか?

今回の主題である、「ブッダが考えたこと」であるが、自分の認識を非常に改めることになった。小さい頃からお釈迦様とはということを叩き込まれてきたハズなのに、お釈迦様の無とは、仏教という宗教の枠組みからは本来はうかがい知ることができない事なのである。通常、仏教とは大乗仏教と小乗仏教に大別されると認識していた。それが、結婚してはいけないなどの禅宗的な世界観と、肉等を食しても良いという世界観に分かれていたという認識だったが、実際はどちらもハズレており、どちらもあたりであった。
この書籍の素晴らしいところは、いきなり教義を分析していないところになる。当時の時代背景特に、カースト制度との対比、バラモン教の影響、ブッダへの影響等、社会情勢から迫るところが特筆的だ。これが筆者の言う宗教に携わらない人間が神学者をやることの意味であると思われる。つまり、常にフラットな視点で物事を分析出来るのである。
余談ではあるが、ソーマと言う神の飲み物は当時の時代背景から、ベニテングダケから抽出した幻覚物質であるという記載もある。(Wikipediaでは否定されているが)しかも、いわゆる聖仙は私有財産もあり、家庭生活も営んでいるそうだ。非常に人間的な存在だ。こんなところが本書のつかみであり、まんまと自分は罠にはまっていくのである。(笑)

■哲学者カントとのつながり

p64にドイツの哲学者カントの名前が出てくる。「純粋理性批判」の名のもとに。ここでは、カントのややこしさを省くために、世界の始まりがある事と無い事について、ブッダが答えなかった事柄の事柄と同じであるとある。つまり、原書の仏教においては認識論であり、読めば読むほど、カント的な認識がなされていたであろうことがよく判る。目の前にあるものは◯◯というものではなく、色と形でしか認識されておらず、経験から自らの理性に拠ってそれが◯◯だと認識していると言うのだ。これはカントが言っていた事とほぼ同じである。ただし、ブッダはこれを根拠に我々の非実態性の実在性を無視しようとはしていない。知覚できないからといって、それがそこに無いとも言い切っていないのである。ブッダが経験論者であるからこそ、知覚・認識出来ないものが存在するしないは経験論を超えているわけだ。(経験していないからいないともいい切れないから)

■すべてを知る者

p90にブッダは「すべてを知る者」とある。ここは素晴らしく難解で、まだきちんと理解しないが、経験論者から類推するに、経験則から事柄の始まりと終りを経験から分析し、ある事象の始まりと終りを認識出来ていた、鎖のつながり先がわかっていたと言うことになる。また、知るべき事柄と知らざるべき事柄の境界を認識していたからこそ「解った」のかもしれない。幹だけでなく、必要な枝と葉、そして実がどのようにサイクルにのっかってエコシステム化されるのか、つまり輪廻転生の理を見通していたのだろうか。

■苦楽中道が理解されない

p100について、ミリンダ王の問いがあるが、弟子デーヴァダッタがブッダの苦楽中道というポジションを取ったことにより破僧伽を行う。そして厳しい修行を行うことになるのだが、輪廻転生という概念は日本では幸せな意味合いに捉えがちだが、インドは違った。再生があるならば再死も存在する。もう一度死ななければ行けないのは嫌だと言うのだ。だから、解脱すると。生地獄なのだと言うことらしい。そして、その苦しみから人々を開放してあげたいというのだ。肥大化した全知と肥大化した慈悲が合わさると何事も暴走する。幕末の志士達のように。第二次世界大戦時の軍部のように。ミニマムはゲリラ的なテロ行為だし、マキシマムは戦争となる。

■プラグマティズム=実際主義

p128ではブッダの修行への向き合い方が詳細に書かれている。プラグマティズム=実際主義というべきもので、悟りを開いた当初はいわゆる修行(滝に打たれるような)を行っていた。質素で貧しい乞食のような生活を送るのである。しかし、出家集団が肥大化するとそうもいってられなくなり、不殺生戒からするとどうかと思うが、肉・魚を三聚浄肉という条件が揃っていれば問題ないとしたそうだ。ただし、これは上座部仏教(小乗)と大乗で大きく異なるのは、大乗が前者であり、上座部仏教が後者を広めたものであるからだ。日本では上座部仏教が比較的精力的には大きいと思われるが、大乗仏教(禅宗)はよく断食や精進料理などでお目にかかるものである。なんて日本はおおらかなんだ。これからも分かるように、ブッダは実際主義だからこその対応だ。人が増えてきたときに、こじんまりした組織ならできた話しも、組織が肥大化すれば難しくなる。そこで自らが緩和することで、人々の心に平定をもたらすと言うことだったのかは分からないが、そういう事ではないだろうか。
そういう意味だとキリストもアブラハムも実際主義だと思われる。人々を率いるためには柔軟に対応していかなければ、自分以外が困るわけであるから(もちろん、他にも理由はあるにせよ)生き残るための術だったのだと私は思う。

■Twitter身体論に近い無常観

先日から、興味を持ってみているTwitter身体論であるが、ブッダもこのように語っている。
「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ること無く修行を完成させなさい」
Twitterの様に川のように流れ出て行ってしまうのは人生そのものである。過ぎた事に執着していては目の前のことにすら取り掛かることが出来ない。人の命は限られており、平等だ。明日死ぬかもしれない。この言葉はブッダが入滅する直前に残した言葉であった。親鸞聖人も同様のことを残している。
「明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは」

■哲学者であったブッダ

哲学を最近読み始めているわけだが、特に自己境界線についての考察が大半である。無とは己を捨てることと言われるが、実際は我を無くすと言うよりも、我以外を無くすという事ではないだろうか。死ぬ間際のブッダは以下のとおり述べている。
「それゆえに、この世で自己を島とし、自己をたよりとして、他人をたよりとせず、正しい教えを島とし、正しい教えを拠り所として、他のものを拠り所とせずにあれ」
他人を頼らず、正しい法を見つけ、それを拠り所にし、それ以外に依存するなということである。この時教えというのはブッダの教えを守れではない。教義は死後出来上がっているから、当時の法律に相当するものと解釈するようだ。また、ブッダは私は導かない、教えは説かないと話しをしているそうだから、確かなのだろう。また、ブッダは悟りの境地は自らで見つけるしか無いと悟っていた訳で、アドバイスは与えるが、答えを見つけ出すのは自分としていたと考えられる。強烈な自己の存在である。むしろ、他者の存在との明確な境界線がそこにあり、自らが影響を与える範囲は自らの中にしか無いと言っている。これはカントが純粋理性批判で話していることとそう違うことではない。ただし、そういう自分自身には興味が無いからこその無我の境地であり、無心ではないのだ。現在のワガママと我は同義ではない。これらのことから、筆者も書いていたが、私も同様の感想をもった。ブッダは宗教家というよりも間違いなく哲学者なのだと。カントがキリスト教信者だから純粋理性批判がキリスト教が根底にではなく、突き詰めた自己解釈は原初宗教論に行き着くのではないだろうかと言うことだ。従って、私はカントはブッダに近いなと感じたのである。

■まとめ

初めての宗教書の感想なのでまともに書いてあるかはわかないが、少なくとも私の想像していたお釈迦様と実際のお釈迦様との間には相当なギャップがあり、もっと人間的であったということだ。歴史上の偉人の人物像など、後世の歴史家や一般大衆によって印象を積層していった結果であるからあてには出来ない。しかしながら、このようにバイアスの余りかかっていない(と自称でしかないが)ものを読むに連れて、つくづくこの手の書物は原著を読まないと真意は分からないものだなと思う。
しかしながら、本著は非常に優れたバランスの上で書かれた書籍であることは間違いない。個人の感情ではなく、調査と分析から非常に論理的に書かれているため、理解しやすいのである。(もちろん、言い回しが難解な部分が所々あるが、純粋理性批判の入門訳本よりまし)
「レコーディング・貪瞋痴」がゴータマ・ブッダの仏教 ★★★★★
本書は、ゴータマ・ブッダが仏教を開いた根拠となる独創性を、輪廻のメカニズムのパラダイム変換であるとする。すなわち、輪廻の原動力が「欲望」という常識的なものではなく、「根本的な生存欲(渇愛、癡、無明)」であることを発見し、欲望の滅に用いた思考停止型の瞑想や苦行では生存欲の滅ができないことを明らかにしたことである。意外なことに、「生存欲の滅」には「生存欲に気づくこと」だけが必要なのである。気づくための修行方法を、ゴータマ・ブッダは次のように整理している。(p.61〜62)
 1.生存欲の滅に気づくための直接的な修行:十二因縁と四聖諦説
 2.上記直接的な修行に教育的な配慮を加えたカリキュラム:戒定慧の三学
 3.経験的に知り得る事実のみの直視(or 観察)が修行方針:形而上学的な問題への関与の拒否(十難無記)
気づくための修行方法に入る準備段階として最も分かり易い例が、食事の貪欲に気づくための「レコーディング・ダイエット」である。これを各自の欲に応用して「レコーディング・感情」とか「レコーディング・買い物」といった具合に実践すれば、やがて無理なくゴータマ・ブッダの修行に移行できる。

本書のもう一つの画期的な特長は、紀元前2世紀の仏典『ミリンダ王の問い』の中のナーガセーナ長老のことばが示すように、「菩薩の慈悲」ではなく「神格化された仏陀の慈悲」を認めると、オーム真理教の殺人事件を正当化してしまうプロセス(p.103〜104)を示したことである。ここの論議こそ、哲学の論理スキルが威力を発揮した部分である。著者が、ゴータマ・ブッダの独創した修行方法として「徹底的に思考する瞑想」を絶賛するのは、主観に埋没した思考ではなく、「(哲学的な論理で)徹底的に思考(して真理を発見)する瞑想」だからである。

おもしろいのだが・・・ ★★★☆☆
 面白いのだが、著者の、ほとばしる伝統的な仏教学者への敵意がどうも、欠点となって
読む側に本の説得力をかかせるように感じる。
 伝統的な学者が心から憎いのはよく分かったが、、何か私生活であったとしか思えない。
絶対。。 

 「梵天勧請は人生の角によくある声、ブッダの意識下の声とし聞こえ、その後の数十年を
方便の生として生きた。。」なんてくだり著者の空想としか思えなく、そういう文脈がしば
しば見えるのが難点。
 ぼやけた点を自分の都合によって読み下す、、という著者が嫌いな伝統学者の手法に
、著者も実は陥ってないだろうか?

 著者の毛嫌いする仏教学者の本を読み終えたときと同じような感想を持った。
「原始仏典でさえ、ブッダ死後、かなり経ってから文字に書かれたわけで、どうとでも
とれてしまうんだなぁ、、」と再度感じた。
 もちろん著者はそれを否定してるわけだが、、

 ただ著者のほかの本を読んでみたいとは思う。視点が今までのいわゆる仏教書とは
違って斬新というか理性的な感を受けました。
知性の教え ★★★★★
ブッダの初期の教えは、ラマナ・マハリシ等に代表されるインドの伝統的な手法である単純で素朴な事実の確認を目指す教えである事がわかり、大変感激しました。現在の仏教に関わっている人の中には、道徳的な側面を重視する人もいますし、大乗仏教こそ究極の教えである考える人もいますし、念仏に、禅に一生をささげる方もいます。仏教は、ブッダの初期の教えを超えて、あらゆる教えを吸収した教えの総合デパートになっているのではないでしょうか。どの教えが自分にあうかどうかは、自分が決めるしかありませんが、ラマナ・マハリシのような知性の哲学に心が惹かれ、真理探究の修行をされている方は、ブッダの初期の教えに触れてみてはいかがでしょうか。
仏教、インド哲学両方の理解に役立つ良書 ★★★★★
おもしろい! そして、すっきりしている。 この良書に出会ったことは、ラッキーだ!

ゴータマ・ブッダが考えたことが、 簡潔に述べられている。従来の説とは異なる見解であるようだが、
(こちらの方が)シンプルで分かり易い。仏教学者ならば自宗派の教義に縛られるところだが、宮元氏は
インド哲学の専門家なので、インド哲学の観点から仏教の森を見ている。そこに中立性が生まれるのだろう。
また、当時のインド哲学の状況を踏まえながら、ゴータマ・ブッダが生まれ育ったその時代・その地域の
状況を考慮・検討している点でも、その内容は信頼できると私は思う。

 ゴータマ・ブッダが考えたアイデアと、そのオリジナリティーは、今でもパワフルであると思う。
初期の輪廻思想、輪廻的な生存にまつわる因果関係の鎖についての智慧、全知の示すもの、徹底思考の瞑想と
思考停止の瞑想の意味、形而上学的問題に対する態度、経験論・実践哲学などが参考になった。
仏教とはあまり縁のない人にも簡単に読め、おすすめである。

宮元氏が言うように、「最初の仏教」が確定できると、これを基準として後世の仏教の考え方を
理解・位置づけし易くなるし、インド哲学全体の流れも理解しやすくなる。なぜならば、インド哲学
とは、古代ヴェーダからウパニシャッドを経てバラモン系と 仏教等が 批判しあい 時には民衆の土着信仰
を取り込み 時には相手の吸収できる所さえも吸収して  形作られ発展してきたものだからだ。
たとえば、「空観」はバラモン正統派の実在論哲学を批判するために発展していったのかもしれないのだ。

 姉妹書の「般若心経とは何か」も、おもしろい。こちらの方は、ゴータマ・ブッダから数世紀後の、
紀元前後に興った大乗仏教運動およびその中心ともいえる菩薩行の観点から新しくとらえ直されている。
これも腑に落ちる内容である。しかし、般若心経についても、宗派により解釈が異なるとは知らなかった。
もし現在の教義と相違があっても、当時の考え方を示していればそれでよいと思うのだが。