反面教師としての般若心経
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著者は、“アーラーラ・カーラーマ仙人の「無所有処定」やウッダカ・ラーマプッタ仙人の「非想非非想処定」のような思考停止を目指す瞑想では、瞑想から離れた時の思考に現れる無自覚・無知を停止させることは出来ない。(p.19)…中略… ゴータマ・ブッダが見出した解脱の智慧とは、苦楽を観察して中道を見極める(発見する)ための「徹底的に観察、考察する、思考集中の瞑想」であった。(p.24)”と述べる。この「徹底的に思考する瞑想」とは釈尊独創のヴィパッサナー瞑想(観)のことであるが、“思考集中”という言葉はサマタ瞑想(止)を想起させるので、誤解を避けるために、「観察して発見する瞑想」というような呼び方を工夫したい。
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いは、パーリ仏典の『Anapana-Sati Sutta』(前半の漢訳は『安那般那念経(雑阿含経803)』)と対比して考えれば、明確になる。『Anapana-Sati Sutta』は、1)カーヤ(身体・呼吸体)を対象とする瞑想、2)ウェダナー(感情)を対象とする瞑想、3)チッタ(心)を対象とする瞑想、4)ダンマ(五蘊に対する四聖諦等)を対象とする瞑想、の4段階からなり、各段階はさらに4ステップからなる。第1段階の第4ステップで「仮想の像(ニミッタ)」(空海はこれを明星と表現した)が現れる所までがサマタ瞑想に相当し、第2〜4段階はヴィパッサナー瞑想に相当する。
さらに、著者は“後世の仏教徒たちは、縁起説を「輪廻的な生存の究極的な原因を確定し、その究極的な原因を滅ぼすことによって最終的には輪廻的な生存が止み、涅槃寂静の平安な境地が得られる」という目的のためではなく、ものごとが無常、無我であることの立証という目的のために用いるようになった。(p.45)”と述べるが、それがヴィパッサナー瞑想の発見の一例である。
『大パリニッパーナ経』でブッダ釈尊は「この世で自ら(が体得した教え)を島とし、自ら(が体得した教え)を拠り所として、他人(が体得した教え)を頼りとせず、(自らが体得した教えの元となる)法を島とし、(自らが体得した教えの元となる)法を拠り所として、(自らが体得した教えとは無関係な)他のものを拠り所とせずにあれ。」と述べている。( )内は私が補足した。その遺言に忠実な後世の弟子たちが、アーガマに伝承されたブッダ釈尊の教・法を徹底思考して、さまざまな小乗や大乗の思想を発見した(気づいた)のだと思われる。そこから我々が何を発見するかである。