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喪失記 (角川文庫)

価格: ¥504
カテゴリ: 文庫
ブランド: 角川書店
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魅力的な主人公、もっと奥が読みたい。 ★★★★☆
一言でいえば、面白い。
面白い小説なのだけど、
わたしには主人公がいささかボヤけて見えた。

彼女は…
なぜ、そこまで発想が自虐的なのか。
なぜ、そこまで思考が自己卑下に走るのか。

しかも、高校の下級生女子の頬を赤く染めさせ、
居酒屋で出逢った女の子に突然唇を奪われるような、
摩訶不思議な強い魅力を持った女性が、である。

かといって、これは中性の苦悩を扱った小説ではない。
主人公は心身ともに女性なのだ。
女性としての性が満たされないことに苦しんでいる。
三十歳を過ぎたのに、彼女には男性経験がない。
心が通い合うような恋愛経験もない。

肩がいかっていてルックスに自信が持てないから。
子供時代に他人の家で育ったから。
教会に身を寄せキリスト教(教育)に触れたから。
本書で示されるこんな淡い根拠では、この物語の骨となる
「主人公の重い病のような苦しみ(性的飢餓)」に納得できない。

物語の最後に主人公は言う。
「すべては、私が、自分で、歪めてしまったのだ。」
そうだ。そうなのだと思う。
彼女は自分で自分の性の発露を歪め、抑圧して生きてきた。
それはなぜなのか。どうしてなのか。
それこそが知りたかった。
キリスト教教育を受けたから、
などという手のひらに乗るほどの小さい理由を持ち出さずに、
もっと人間的な核心の中へ深く切り込んでみてほしかった。
それこそが、この作品を本当に輝かせるテーマなんだと、
生意気にも思う。
共感できない女性は幸せ! ★★★★★
いわゆる「カワイイ」女の子ではない主人公が、幼い頃自分の中に男っぽい部分を見つけた辺りから
彼女の自意識が揺らぎはじめます。

彼女は幼なじみ(とてもカワイイ・コケティッシュな女の子)やその他「女の子らしい女の子」
と自分に対する周囲の扱いの温度差や、周りの女の子と自分の考え方の違いから自らの事を
「女の子らしくない見た目」な上「言動が女らしくない」はては「女としての価値がない」と
思うようになり、その「自分は(主に男から見て)女じゃないんだ・・・・」という
自意識がまた彼女を「女」から遠ざけます。

原因は「生まれながらに超カワイイ子」以外誰にでもありそうな経験やその時彼女が思った事から
芽生えたものなのですが、そういった小さなことが積もり積もって彼女自身から
「自分は女である」という自意識(自信に近い自己肯定感)をちょっとづつ・
じわりじわりと奪っていくことになったというのがなんとも言えず、「もっと早い段階で
なんとかならなかったのか?」ともどかしい。。。
これほどではないですが、似たような経験は私にもあり、変わり者なのだろうかと思い悩んだり
していたことも過去にはあったので、心の慰めにもなりました。
女の子に女らしさ、男の子に男らしさを強要しなくなった現代では、どこでも
起こりえそうな話です。
漫画「オトメン」の主人公達は「異性っぽさ」をもつと同時に男らしさや女らしさもかねそなえて
いるせいかあまり悩んでいませんが、あれがポジティブな方向だったとしたらこれはネガティブな
方向かも。

この本を読んで「全く共感できなかったし楽しめなかった」「何の事だかさっぱり分からない」というような
女性、はたまた「これはギャグなの?!」と思うような女性は本当に幸せだと思います。
ああ、あと男性が読んだら「ブスのひがみ」とか「歪んだ考え方でモテない女の戯言」とか言いそうだな と
思いました(苦笑)男性も、この主人公を理解できない人は「健康」で幸せかもしれません。
個人と社会・男性と女性の関係を、処女性を通じて残酷に描き切る ★★★★☆
私は男に飢えていた。

そんな独白から始まるこの物語。理津子はなぜ男に飢えているのか、なぜ飢えなければならなかったのか、本書ではその理由が切々と語られていきます。なぜ理津子のような "ふつう" の女性が、男に飢えなければいけないのか。

理津子の個人的な事情としては、厳格なカトリック神父のもとで幼少期を過ごしたことが大きな原因になっています。自分が女性性を所有することは罪悪である、他人が自分の肉体を望むと考えることは傲慢である、といった心への強い制約が、理津子自身を縛り付けます。幼少期にカトリックと自己アイデンティティとの関係をうまく切り分けることができなかった理津子は、カトリックの世界を離れ「社会」に出たときに、「社会」における "ふつう" と自己の "ふつう" との間に大きな溝を作ってしまいます。

ここで読者が思いを馳せるべきは、理津子の事情そのものは極めて特殊なものであっても、同様に「社会」と「個人」との間に大きなひずみを作ってしまった女性が世の中にはたくさんいる、ということでしょう。そのひずみのために成熟できず(=処女)、苦しみ、飢え、沈黙(silence cry)の中で業火に焼かれる夜を過ごす女性が、世の中にたくさんいることを、本作品は理津子を通して読者に語りかけます。

姫野カオルコは世の処女たちの沈黙(silence cry)を掬い上げ、彼女たちに「祈り」を捧げるのです。そしてそれは、本シリーズが私小説でもあることを考えると、姫野カオルコ自分自身への祈りでもあるのでしょう。

さて一方で、本作品には「救い」も用意されています。それは本能の赴くままに生きる男性・大西との間に作られた「友情という何者か」です。彼との出会い・語らいによって、理津子は自分自身のひずみを少しずつ受け入れることができるようになります。

ひずみの形はもちろん人それぞれですが、本作品の祈りと救いがたくさんの silence cry のもとに届き、そのひずみを受け入れるきっかけになることを、一読者として祈りたいと思います。
せつないほどに不器用 ★★★★☆
「ドールハウス」に継ぐ、第2部ということですが、そちらは未読です。
「私は男に飢えていた」という衝撃的なコピーのままに、普通の人ならすんなり超えていくであろう性の階段を、なかなか上りきることの出来ない主人公。決して醜いわけでもなく、知識がないわけでもない。そのジレンマをせつなく描いています。
彼女にとって異性とのかかわりは、「一緒に食事をすること」。その描写は繊細で、読み手までもが、「ぐう〜」とおなかを鳴らしてしまうほど。考えてみれば、「食べる」という本能を満たすことは、ちょっとエロスも感じますね。
現代には意外とこうした悩みを抱えた女性は多いかもしれないと、ふと思いました。
歴史的傑作 ★★★★★
この本はあまり注目されなかったが、前作ドールハウスと併せて、歴史的な傑作だ(と私は思う)。失恋する、という普遍的でありふれた行為が、そのままでエンターテイメントを構成することは文学史上でも皆無である。しかし、著者の天性の才能が、それを可能にしてしまう。ふられる、という痛い瞬間を、(それはだれにも覚えがあることではないだろうか)映像化するとき、雪がつもるような感情がこみあげる。
ラストは静かに、静かに。ひとつひとつの場面がとても映像的で、強い印象をのこす傑作である。