構造主義的な、あまりにも構造主義的な
★★★★★
道徳に関する永井均の既発表の論文を集めたもので、どれもすでに活字になっているものばかりである。いずれの論文も優れたものであるとはいえ、例えば最初の「ルサンチマンの哲学」と最後から二番目の「怨恨なき復讐」の内容はほとんど同じであるなど、編集上の杜撰さが見られる(むろん永井の責任ではない)。唯一の未発表は巻末の川上未映子との対談であるが、あるいはこれを目当てに購入する読者を見込んでの文庫化なのかも知れない。
「なぜ人を殺してはいけないのか」というフレーズが出版界で一時期流行ったことがあったが、永井は「人を殺してもいい」という急進的立場の先鋒的論客であった。本書においてそのフレーズが封印されているのが、永井の意図なのか出版社の意図なのかは分からない。だが「だれをも害するな」という消極的道徳論と「できる限り万人を助けよ」という積極的道徳論とは、無関係ではないとはいえやはり別々に論じられるべきだろうとは思う。
道徳という価値が不当に肥大化しており、ルサンチマンによる奴隷一揆が完成してしまった今、われわれはその価値観の外に立つことすらできないと永井は指摘する。その主張は深く鋭く説得力のあるものではあるが、道徳に対する疑いが強すぎて、その疑いを疑う余裕がないような印象を受ける。
そもそも道徳とは何だろうか。それは本当に徹頭徹尾、外からやってきたイデオロギーに過ぎないものなのだろうか。「気遣い」や「思いやり」という言葉を使うと胡散臭くなってしまうが、「自他の対称性」や「他我の承認」といった現象は、ヒューマニズムとは無関係に言語の問題として分析されるべきではないか。道徳の起源はルサンチマンではなく言語ではないだろうか。
川上との対談の中で永井は、自分が猫の姿を借りて語っているのは、人間界のプレーヤーとしてではなくルールの外から語るためだと言っている。だが猫の姿を借りなくても、プレーヤーとしてではなくナレーターとして哲学者はすでにルールの外から語っている(例えば「人を殺してもよい」等々)。しかし言語ゲームの外から語ることはできない。道徳とは恐らく言語ゲームと同時に立ち上がるルールであり、永井が反道徳を語ることができるのは、行為から独立したメタレベルでの言語ゲームすなわち哲学においてのみである。
行為で示す必要はないが、行為レベルで問題となる「道徳」が言語レベルでのみ語られている点に空虚さを感じてしまう。そもそも「道徳」という言葉があまりにも漠然としている。独我論者の永井らしい道徳論ではあるが、口先だけのアナーキストに便乗されるのはもううんざりという気がする(これも永井の責任ではないが)。
将来出るであろう本に期待を込めて
★★★★☆
鋭い批判の本です。ニーチェのキーワードともいうべき「ルサンチマン」、「道徳」、「永劫回帰」などに関しての俗流な解釈への批判から、さらにはニーチェの思想そのものに対しても、愛あらばこその批判の対象とされています。
ただ、批判そのものは鋭いのですが、どうも読んでいてそれが少し浅く感じてしまうのですね。もともとこの本は一冊の本として書かれたのではなく、ニーチェや道徳の問題に関してあちこちで書かれた文章をまとめたものだという事情のせいかもしれません。批判が鋭いだけに、読んだ後に物足りないというか、不満なものを感じてしまうのです。
いつかこの本で扱ったテーマで一冊のまとまった論が本になるのを期待して、その本のための予告編と考えることにして、評価は☆四つです。