おもしろいけど
★★★☆☆
ルビが半端じゃなくうざい。かなりイライラします。
文章(テクスト)、民族的(ナショナル)、表象(リプリゼント)、そうだ(イエス)、それでもなお(ノー)、
上下動(ジョウルト)、節度(デコーラム)、装置(アパレイタス)、貸方(クレディット・サイド)、
現前(プレゼンス)、核心(ハート)、性質(セルフ)、対象(オブジェクト)、主題(サブジェクト)、等々……。
アホか、もういいっつーの!
「他者」というアイデンティティ
★★★★★
私たちの眼差しがパレスチナに注がれるとき、そこに「問題」を見てしまう。だが言うまでもなく、そこには私たちと同じような日常がある。迂闊にも気づかなかったこの当たり前の事実を、本書は気づかせてくれる。
ここに登場するのは私たちと同様に多種多様な人々だが、しかし私たちとは決定的に違ってもいる。私たちにとってアイデンティティの問いかけは観念的なものだが、かれらには命と身体とを賭した切実な問いである。「1948年」、本書のなかで何度も反復されるこの年号を境に、パレスチナの人々は「難民」となった。いや「自分のものではない勢力や暴力のしるしに従属」することになったのだ。かれらのアイデンティティには否応なく「他者」が刻印されている。イスラエルの捕虜となった男が当局のラジオ・インタビューを受ける場面(103頁)は漫画のように面白い。男は徹底的に屈辱的なピエロを演じきることで、これを茶番劇(パロディ)化してみせる。その根性と悲哀とが相俟って一編のコントになっているのだが、それがかれらのアイデンティティなのだと気がつけば、笑った気分も冷めてしまう。
しかし厳しい境遇にもかかわらず、サイードが描くパレスチナは、どこか素朴な懐かしささえ呼び起こす。プルースト的といってもいい原郷への憧憬、それはAfter the last sky(最後の空も尽きた後に鳥たちはどこを飛べばよいのか)という原題に込めたサイードの祈りのような思いを反映しているのだろう。
パレスチナの世界
★★★☆☆
アメリカに亡命したパレスチナ人であるサイードが
隔たった地点よりパレスチナとは何か、そしてひいては
自分はどういう地盤のもとに生きているのかという問いを
追究する。
「他者」「outsider」「追放」「悲惨」…
このような言葉よりなる言説、それはやはり我々には
最後の最後までは理解できないものなのではないだろうか。
流浪の民族であるパレスチナ、何も確固たるものがない
何も依拠するものがない民族。
そこに生きるものの底に少しでも触れようとする努力
それが必要であると思う。
その現実から目を背けず、そこから真実を少しでも
拾おうとする、そんな試みが必要であると思う。
まだ現代においても存在する悲惨をしっかりと
認識する必要がある。
難解だが外せない
★★★★☆
スイス人写真家のジャン・モアが撮影した、パレスチナ内外での写真に、サイードが付けた随想のような本である。が、内容は難解である。少なくとも、パレスチナの歴史についての予備知識を、たとえば「パレスチナ新版」(岩波新書)などで仕入れておいた上で、サイードのパレスチナ問題についての著作「戦争とプロパガンダ」や「パレスチナ問題」にあらかじめ眼を通しておくことが望ましいだろう。
その理由のひとつは、サイードの文章がかなり凝ったレトリックを用いていることである。それは訳書に付された多数のカタカナ(英語)を見てもわかる。もうひとつは、サイード自身も述べている通り、本書が系統だった記述をはじめから放棄していることだ。むしろ、散文詩という印象すら受ける。
内容は四つのパートに分かれている。第一章「現状」では、いわば外から眺めたパレスチナの諸相について触れられている。第二章「内側の諸相」では、パレスチナ内部の亀裂についても触れられる。第三章「創発」では、普段あまりわれわれが知ることのないパレスチナの側面、すなわち生活の面にも触れられ、最後の「過去と未来」では、アメリカとの共犯関係やディアスポラ・ホロコーストをも含む過去の問題と未来についての展望が述べられる。が、結論は呈示されていない。
サイードの著作の中では特異な位置を占めるもの。サイードの思想に興味のあるかたにとっては外せない本の一冊であろう。