逃げるのをやめた「ぼく」
★★★★★
訳者あとがきに「トゥーサンの作品にとって《逃げる》は特別な意味を持つテーマだった」
とある。
まさにその通りで、この作品はトゥーサンの全ての小説の結末というような印象を受けた。
『浴室』ではベネチアへ旅立つことで自らの恐れるもの
(溶け合えないもの、危険なもの=死)と一度は向き合うものの、
結局逆戻り(後戻り?元通り?)になり、またも逃げてしまった。
一方『逃げる』では、北京という異空間に自分を置くことで
恋人の父親の死から逃げていた。
だが、『逃げる』の結末は、違う。
自分がトゥーサンで涙を流すとは夢にも思わなかった。
『逃げる』の最後の2ページのために、私はトゥーサンのこれまでの作品を
読んできたのだと思った。
「愛しあう」のふたりを遡る、せつなすぎる時間の旅
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「愛しあう」の続編。と言っても、時間軸は過去に遡る。相変わらず主人公の名前も職業も、北京でのスリリングな逃走劇はなぜ起きたのかもわからない。「ぼく」は一頁目から“それをくわしく説明するつもりはない”と断言する。
そしてそんなことは、小説にとってさして必要なかったのだとすぐわかる。北京へ向かう夜行列車のトイレでの謎の女リー・チーとの抱擁(彼女の体にぴったりと張り付いたビュスチエを引っ張って脱がせようとすると長い髪に静電気を帯びてくっつき“ぼくの指先にも静電気が走って、まるで鉄条網に触れたような感覚に打たれた”)、そこにかかってくるパリのマリーからの電話(何万キロも離れたパリの午後のマリーの声は“無限の大地、田園や草原を越え、地球上に広がる夜の闇や、色彩のグラデーション、シベリアのたそがれの薄紫色や東欧の都市を染めるオレンジ色を越えて”届いた!かつてナボコフが自伝で黄揚羽についてそっくりの描写をしたのを思い出す)、北京のボーリング場でレーンを滑走するボール、何百もの赤いランタンや紙でできた灯籠の灯る夏の夜の闇を駆け抜ける三人乗りのバイク、一転して地中海に浮かぶエルバ島の真昼の人けのないホテルの中庭の離れ、沈欝な鐘の音、扉のぎしぎし鳴る教会でのマリーたったひとりでの葬儀……山の切り立った傾斜面に沿った、人のいない夜の海(そしてマリーの涙……塩からいキス……「愛しあう」の読者はもう知っている。今や壊れそうなふたりを繋ぐキスすらままならないことを……)それで十分だ。
「浴室」以来のファンは、あの軽妙な語りくち(本人いわく“心理描写は一切抜き”)のトゥーサンがなぜこんな胸の疼くリアルな恋の終わりを描くようになったのか、驚く。しかし、124頁からの、旅について(あるいは人生について)の一節を読めば、そこにヴェニスに旅しつつ全く観光をしない「浴室」の主人公の未来の姿を見るのだ。
逃げる--何から、どこへ?
★★★★★
前作「愛しあう」が新宿の高層ホテル、音もなく降る雪、地面を揺らす地震、塩酸で開いた土の穴など「垂直」のイメージを軸としたのに対し、本作「逃げる」は、上海から北京に向かう寝台列車、霊柩車を先導する馬など、鮮烈な「水平」のイメージに満たされている。
その列車の中ほど、何だかわからない事件で割れたガラスのそばにいる「ぼく」に、マリーから国際電話がかかる。何万キロの距離を昼から夜の大地を越えて届く声の描写の見事なこと! 列車の脇腹を切り裂いてきた死を告げるマリーの電話に、「ぼく」は涙する。
その電話に呼び出されるようにぼくは地中海に戻り、そしてマリーは馬に乗って霊柩車を並足で「水平に」先導する。最後に二人は海で抱き合い、マリーはそこで初めて涙する。
水平に移動するからだから逃げ出したこころは結びつくことができたのか。現実の死から精神は不死のほうへと逃げ出せるのか。
本書を読んで確かめてみてほしい。
緊迫した生々しさと、幻のようなあやうさ
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この作品を読むと、二つの感情が交互に襲ってきます。
ひとつは緊迫した、現実味あふれる生々しさ。実際に体験したものが、体験したまま書き綴っているかのような強烈さがある。
それでいて読み進むうち、全てが幻であるかのような危うさを感じさせてくる。
読むたびに読者を揺さぶる、驚くべき小説です。