著者にとって「自分を好きになること」は努力だったのではないか、と思う。
著者が祖父や母のことを書くとき、凄かった、こんなこともあんなこともできた、気力があった、人にも尊敬された、尊敬している、という。
好きだ、楽しかった、嬉しかった、という言葉はあっただろうか。
と同時に著者の諦めの早さ、やってみる前にできない理由を探す癖のようなものもしばしば見て取れる。
なるほど露伴ような論理と行動が一致した人、文のような実地の人にとっては歯がゆかったろうとも思う。
時間をかけてじっくり取り組んだだろう文章だ。
湧き出る事柄を、時間をかけて書いた文章は、読者にも時間をかけて読むことを要求する。
しかしネガティブな心情で、不愉快な事柄ばかり書き連ねているので、読む楽しみが浅い。
幸田文の本から著者の本に分け入った者には、共通の登場人物も興味深い。
ネタが重複する部分も多く、母娘の視点の違いが際立つ。
東京から長野へ一時疎開したときの、母方の親戚の冷遇は幸田文の文中では見なかった。
幸田文は病院で一人で息をひきとったそうだ。
娘は「また明日来るね」と言って、母の死後病院に行き「約束を果たした」という。
この熱の無さはなんだろう。