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小石川の家 (講談社文庫)

価格: ¥490
カテゴリ: 文庫
ブランド: 講談社
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凛として背筋の伸びた生き方 ★★★★☆
青木玉氏は幸田文氏の娘です。ということは幸田露伴氏の孫にあたる。
昭和十三年五月、幸田姓にもどった母・文が、九歳になった著者・玉をつれて小石川の幸田露伴の家に転居してから、祖父・露伴が没した昭和二十二年、そして母・文が亡くなる平成二年までのあいだの幸田家の生活、想い出を随筆に著している。
祖父への尊敬と畏怖、それを九歳のころの青木玉氏は母・文さんの露伴氏に対する献身ぶりから感じ取る。日常の全てにおいて家族に対し教養と高尚さをもって生きることを科し、安直な卑俗性を憎んだ露伴は、幼い孫にさえ思慮深くきちんといきることを求める。母・文もそのような露伴の意に沿って娘を厳しく躾ける。このような躾のあり方には、賛否両論あると思います。
しかし、子に対する厳しい躾はその裏腹のこととして躾ける側の責任と覚悟があります。つまり、子を厳しく躾けるからには自分がそれを出来ていなければならない。そして、躾けた当事者として、子の行く末に責任をとるということ。この本に書かれた露伴の振るまいは現代のおおかたの基準に照らして、ものすごく我が儘です。しかし、それをするからにはその責めを一身に引き受け、家族の生活、行く末までも責任をとるという強い覚悟があるはず。
「あなたにはあなたの人生があるから・・・」などという逃げをうたない姿勢、それを感じるからこそ娘も孫も従う。ここに現代に生きる私たちが忘れかけている生き方があります。
その忘れかけている生き方とは、たとえば「長幼の序」であり「凛と背筋を伸ばした生き方」です。この本を読み一昔前の凛とした生き方に触れるにつれ、私たちが失いつつある「気高さ」という価値観が呼び覚まされます。
読み終えてなんと清々しくなることか。
本の装丁も良いです。安野光雅氏の水彩画がすばらしい。
明治、堅気の世界 ★★★★★
出来ればこの本は単行本で読みたい。自分が手に取ったのは安野光雅さんの絵と露伴の原稿箋を配した
カバーの最近に無い美しさと、筆者が書き上げた文章の分量が丁度良い、本の厚みから。
頑固な祖父のワンマンな家庭内の行状、それに翻弄される孫娘と、父親を知り尽くし上手く立ち回る
しっかり者の母。と、読めるけれど、私には離縁し母親一人に育てられる孫を、どこに出しても恥ず
かしくない娘に仕立て上げないと(あの露伴の孫娘という言葉がついて回る)と、いつも頭の中で考
える明治の堅気者(江戸っ子)で父親代わりを引き受けた祖父の思いと行動だと文章のそこかしこから
伝わってくる。
母も祖父と同じように考えていたのではなかろうか。三つ子の魂ではないが、理解より行動で早く身に
ついたものはいつまでも体が覚えて忘れないという教育。
今の時代では想像も出来ないが、明治から戦前、娘を「一人前にする」とは「こういうことだ」と
考え実践されていた文化・風土が、(幸田家だけでなく)あったことを知っておきたい。
しかし、玉さんの記憶力と邦楽を感じさせる締まったリズムの文章表現に感心する。
幸田露伴のくそジジイっぷりが面白い♪ ★★★★☆
幸田露伴のくそジジイぶりが、最高におかしい!
頑固なまでに、細部まで心が行き届いた“完璧な家事”を要求する幸田露伴。
それを完璧にやりきる母と、どうやってもできない孫娘の構図がユーモラスに描かれています。

子供だからと泣いたところで許されず、できるまでさせられる教育法。
逃れるすべはただ一つ、うならせるだけの機転のきいた切り返し。
難しい!!! そして、その上を行く幸田露伴の理不尽な発想が最高におかしい。
昭和初期の文豪の家での出来事。 ぜひぜひ読んでみてください。
幸田文への憧れを感じる ★★★★☆
明治生まれで絶対君主の祖父・幸田露伴、
気丈を絵に描いたような母・幸田文と小石川の家で暮らした
青木玉による10年にわたる日々の思い出語り。
青木玉著「幸田文の箪笥の引き出し」にも描かれる
幸田文の人間的魅力が随所に溢れている。

青木玉の祖父・幸田露伴は、社会的には文壇の寵児であったわけだが、
家庭内では自分の身の回りのこと一切を人にさせる殿様であった。
わずか9歳の孫・青木玉に、
露伴の周囲を取り巻く大人でも苦労しそうな機微を求めるあたり、
現代から見ればただの頭でっかちの偏屈爺である。
そんな祖父との緊迫したやりとりの思い出がいくつも語られるが、
いまだに当惑している雰囲気が伝わってくる。
名高い文学者・露伴は、我々凡人とは別の、仙人界に住む人間なのだ。
青木玉も、この祖父には、尊敬や敬慕よりも、
畏怖の念を抱いていたように思われる。

が、その露伴に滅私奉公する母・幸田文の表現になると、
とたんに文章がリズムを持つ。
もちろん語られるのは優しく楽しい思い出ばかりではない。
だが幸田文の機微や機転、気丈さが活写されるたび、
青木玉の持つ幸田文への尊敬、憧れの念が、そこかしこに感じられるのだ。
おそらく青木玉にとって祖父は理解の範疇を超越した存在だったのだろうが、
幸田文は愛情と目標の対象であったのだろう。
自分の無力さを嘆く文章も、幸田文への愛情の表れに思える。

一番胸を打ったのは、幸田文が自らの両手を眺めているようすを
目撃した場面であった。
あの場面を思い出し、原稿用紙に落とし込みながら、
どんな想いが青木玉の胸に去来したのだろうか。
幸田文同様、親亡き後に筆を執った青木玉。
すべてが片づいた後に表された作品のせいか、
彼女の文章には余計な感情描写がない。
だが感情を詰め込まない淡々とした文章が逆に胸を打つ。

幸田露伴、そして幸田文の為人を垣間見ることができる良書である。
湿った炭のような。 ★★★☆☆
巻頭から祖父・露伴の小言がくどい。
ついやってしまった失敗や悪事に対して「何故こうしたんだ」と言われる程うっとうしいことはない。
それが一挙手一投足に渡り、毎日続く。
祖父も母も口を開けばよくない処を指摘し、そうでないときはほったらかし。
怒られるよりは、ほったらかしの方がまし。
辛い。

著者にとって「自分を好きになること」は努力だったのではないか、と思う。

著者が祖父や母のことを書くとき、凄かった、こんなこともあんなこともできた、気力があった、人にも尊敬された、尊敬している、という。
好きだ、楽しかった、嬉しかった、という言葉はあっただろうか。

と同時に著者の諦めの早さ、やってみる前にできない理由を探す癖のようなものもしばしば見て取れる。
なるほど露伴ような論理と行動が一致した人、文のような実地の人にとっては歯がゆかったろうとも思う。

時間をかけてじっくり取り組んだだろう文章だ。
湧き出る事柄を、時間をかけて書いた文章は、読者にも時間をかけて読むことを要求する。

しかしネガティブな心情で、不愉快な事柄ばかり書き連ねているので、読む楽しみが浅い。

幸田文の本から著者の本に分け入った者には、共通の登場人物も興味深い。
ネタが重複する部分も多く、母娘の視点の違いが際立つ。
東京から長野へ一時疎開したときの、母方の親戚の冷遇は幸田文の文中では見なかった。

幸田文は病院で一人で息をひきとったそうだ。

娘は「また明日来るね」と言って、母の死後病院に行き「約束を果たした」という。
この熱の無さはなんだろう。