リアルタイムに聴いてきた者には・・・・
★★★★★
当時、LP2枚組のアルバムはずしりと重く、やたら神々しく見えたものだった。ジャッケット写真も秀逸であった。それくらい、我々にとって、当時のマッコイは、コルトレーンの遺産を継承しつつも自分なりの壮大な音楽世界を構築していく、まさにその過程にあった。
バイト先のJBLランサーから流れ出るパーカッションとピアノのイントロから、いきなりアップテンポのテーマ部分に入り、エイゾー・ローレンス(この人もこれ以外ぱっとしなかったなぁ)のテナーがまさに疾走感たっぷり鳴り響いてきた頃には、僕(とそこにいたみんな)は、改めてジャケット写真に見入ったのだった。
「すげぇ・・・」
ライブの雰囲気と、楽器本来の響きを生かした録音に感動したのだった。その感動は、今でも決して消えることはない。自分に何か特別のことがあったとき、居住まいを正して聴くのである。
コルトレーンとリアルタイムで生きていない自分は、マッコイを通してコルトレーンを見ていたような気がする。
いずれにせよ、ジャズがジャズらしくあった時代の傑作である。大音量で聴くべし。
生真面目な自己陶酔型、大袈裟交響楽
★★★☆☆
マッコイ・タイナーを悪く言うつもりは無いが、70年代のマッコイがコルトレーンの遺志をついで、精神的でスケールのおおきい音楽を追求したころ、なぜかそれに乗れず白けていた自分がいたように思う。あまりに生真面目で、自己陶酔型の音楽は確かにテクニックも構成力も感じるのだが、どこか作為的で大袈裟な感じがぬぐいきれなかった。あまりに音を使いすぎ、鍵盤をたたき過ぎ、無意味なパーカッションが入りすぎに思うのだが、いかがなものか。もちろんこんなことを書くとマッコイのファンからブーングが聞こえてきそうだが、才能がある人だけに、この頃の壮大妄想的楽想は、決して彼のいい面を出していないと思うのだ。リアル・マッコイのころはまだ良かった。結局彼はコルトレーンの亡霊、呪縛から抜け出せずに、それに怯え、それゆえ勇ましくも壮大な交響楽に身を投じたのではないか。