インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

丸山眞男をどう読むか (講談社現代新書)

価格: ¥756
カテゴリ: 新書
ブランド: 講談社
Amazon.co.jpで確認
その端緒 ★★★★★
現在では丸山真男批判も様様なものがでていますがその端緒と
なった本と言えるでしょう。
この本以後丸山批判特にそのナショナリティについての指摘
は多くなりましたが、その点でいえばパイオニア悪く言えば
早すぎたということになると思います。
1つ1つの作品を丁寧に論じており、伝記的部分は少ないですが
哲学的テクストとして読むには良い入門書だとおもいます。
時代と思想家 ★★★★★
 丸山真男を精緻に読み解いた労作。
 面白いことに本書以後、、社会学者や哲学者、日本思想史家、アジア学者などの若手中堅から丸山への疑義を聞くようになった。
 その意味で先鞭をつけた功績はもっと知られてよい。
 特に序盤での村上一郎との交流などほとんどの丸山論ではタブー視されているものだ。
 若い学徒の中には名前すら知らない人もいると聞く。
 時代の流れを感じるとともに、日本において積み上げられてきた知的営みが忘却される恐怖を感じる。
 無論、それとともに著者が言うように、大学者たちの言語が更に一般人のほとんどと、解離していくのをみると60年代など存在しなかったかのようでもある。
適当に書かれた本 ★☆☆☆☆
上のレヴューでアノニマス氏の評価文がありますが、ほとんど尽くされていると思います。私も呼んでみて、これはあまりに薄っぺらだなあと感じました。こんな失礼な言い方はあんまりかもしれませんが、平凡な高校生が書いた程度の作文です。長谷川氏はヘーゲル翻訳では立派な仕事をされており、翻訳の才能には敬服しますが、評論では残念ながら失望しました。内容としては丸山真男に対する適当な意見、解説といった感じです。丸山真男のことは何も分かりませんでした。
丸山がどうとか言う前に、充実した内容の本を書くということを考えてほしいです。読者に失礼ではないでしょうか。
丸山論とは名ばかりの老人の慨嘆 ★★☆☆☆
『丸山眞男をどう読むか』というタイトルは本書にふさわしくない。なぜなら本書は丸山の諸著作を綿密に分析して丸山というトータルな思想家を明らかにするものではなく、丸山論に名を借りた個人的慨嘆に過ぎないからだ。

内容はというと、丸山の主要著作から所々を引用し、知識人と大衆の関わりという著者の問題意識から批判を加えるというもの。しかしその批判も吉本隆明流の「大衆に目が向いていない」「知識人に対する批判が甘い」という使い古された印象論的批評で目新しさはない。踏み込みも信じられないくらい浅い。おまけに、丸山が何を論点にしているのか、丸山の問題意識はなんだったのか、という点は、あっさりと通り過ぎられている。

本書は丸山の真剣な読者にとってはいかにも味が薄く、丸山初心者にとっては丸山の提起した論点を理解することができない。一体誰を対象に著したものなのか疑問であるが、コンプレックスゆえに大衆を聖化したがる知識人もどきには受けるだろう。不毛な受容のされ方である。

著者は高名な哲学者だが、一般人を対象にした読書会を主宰しているという。そういう試みから生まれた実感に根ざした問題意識、つまりアカデミズムと大衆との間の深い溝をどう埋めればよいのかという問題意識は検討する価値があるだろう。しかし、それは迂闊にも丸山論と銘打ったこのような著作として発表されるべきではなかった。これでは自分の感情を吐露するために丸山を使っているだけである。他者の提出した論点を正面から扱わず、自分の問題意識に強引に引きずり込む、そういう他者感覚のなさ、ナルシズムを丸山は最も嫌悪したのであるということを、著者は知るべきだった。

丸山を論じた本なら、間宮陽介氏の『丸山眞男・日本近代における公と私』(筑摩書房)をすすめる。これを読めば丸山の問題意識がよく理解できるし、本書のような議論がいかに不毛かよくわかる。

きちんとした丸山批判だと思う ★★★★☆
長谷川宏は長いé-"æ°-になるå"²å­¦è€...だった。ヘーゲルã‚'初めてå"²å­¦ã®ç' äººã§ã‚‚わかる(かもã-れない)ように翻訳ã-てくれた最初の人だからである。

その人が、またæ°-になる思想家丸山真ç"·ã‚'å...¨é¢çš„にè«-じてくれた。å...ƒã€...の丸山ファンが丸山のè«-ã‚'否定ã-てみる、そã-て止揚。長谷川ならではの丸山のè¶...えæ-¹ãŒã€ç"Ÿãç"Ÿãã¨æ›¸ã‹ã‚Œã¦ã‚る。「è¶...国家主義のè«-理と心理」「『æ-‡æ˜Žè«-の概略』ã‚'読む」晩å¹'の「原型」「古層」「執æ‹-低音」è«-等ã‚'一通りè«-じている。長谷川は作å"ã«å³ã-て丸山ã‚'批判する。

「非æ-¥å¸¸ã‹ã‚‰æ-¥å¸¸ã¸ã€æ-¥å¸¸ã‹ã‚‰éžæ-¥å¸¸ã¸ã€ã¨ã„う往復運動にã"そ、芸è¡"æ'»å‹•ã‚„学問のå-¶ã¿ã®æœ¬å½"の社会的意å'³ãŒã‚ると思う。æ"¿æ²»ã®å„ªä½ã¨ãŸãŸã‹ã†ã"とに芸è¡"や学問の自主・自立の本質があるのではなく、人ã€...の暮らã-の中かã!‚‰ã€ã¾ãŸã€æ-¥å¸¸ã®æš®ã‚‰ã-にå'かって、おのれのイメージや思考ã‚'どう積み上ã'、どう表現ã-ていくかに自主と自立の本質はあるのだ。…丸山真ç"·ã¯ãã"まで人ã€...の暮らã-の感覚にè¿'づくã"とが出来なかったように思う。」(ï¼'ï¼'ï¼'-ï¼'ï¼'ï¼"P)æ-¥æœ¬äººã®è‡ªä¸»ãƒ»è‡ªç«‹ã‚'è¨'えてきた丸山にとってã"の学問æ...‹åº¦ã¯æ¬ ç‚¹ã§ã¯ãªã„かと長谷川はいうのである。それは「(丸山は対象ã‚'限定ã-ていたのだから)ない物ねだり」「丸山は本å½"は違っていた(本心では庶æ°'のç"Ÿæ'»ã‚'理解ã-ていた)」のだろうか。私はã"ういう要ç' ã‚'無è¦-する丸山æ"è­·ã®è­°è«-ã"そ、「丸山万能è«-」に陥るものだと思う。

ã"れはいったã‚"ç "究室ã‚'去り塾経å-¶ã‚'ã-ながら、一æ-¹ã§å"²å­¦ç "究ã‚'ï¼"0å¹'続ã'てきたè'-è€...のするどい問題意識でもある。長谷川は今後「æ-¥æœ¬ç²¾ç¥žå²ã€ã‚'書ã!ã®ã ã¨ã„う。おおいに期å¾...ã-たい。