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渋江抽斎 (岩波文庫)

価格: ¥840
カテゴリ: 文庫
ブランド: 岩波書店
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年を経て読むと、味わいあり ★★★★★
20代に読んだときは、全然面白くなかった。
でも、50歳近くの今、とても面白く読めた。
若い時に読まないと面白くない本もあるけれど、年を経て読むと良さが分かる本もある。
後者の典型の本です
渋江抽斎の子孫の一人になったつもりで読むと面白さがわかる ★★★★☆
江戸時代に弘前の医官で考証学者でもあった渋江抽斎という人物の人生と、その子孫、親戚について克明に調べ上げたものである。

「武鑑」収集の途上で抽斎の名に遭遇したことをきっかけとはいえ、何の血の繋がりもない人物と、その家系を事細かに調べ上げるとは、驚きというほかない。

渋江抽斎の生きていた時代は、鴎外より約100年前である。渋江抽斎自身が記した書物があることから、いろいろなエピソードがまだ残っており、また抽斎にゆかりのある人物を探すことはそれほど難しいことではなかったに違いない。
自分の直系の先祖について除籍謄本を取り寄せて遡れる先祖は、現在1800年初頭くらいが限界で、いわゆる冠婚葬祭の記録しかわからない。除籍謄本にある故人のエピソードは、その家族や友人の死によって、限りなく薄まってしまう。たった半世紀前のことですら、わからないのである。

鴎外が本著に入れ込んだ本当の目的は何だったのか、私はよくわからない。読み方によっては退屈な書物だ。しかし、時間軸に沿った人の繋がりを調べていくことに楽しさを発見することは、現代に生きる我々にも共感できることかもしれない。
鴎外文学の頂点 ★★★★★
「渋江抽斎」は鴎外文学の到達点であり彼の代表作といってよいだろう。鴎外は文人であり医者であり役人だったが、渋江抽斎もまた似たような境遇の人物だった。鴎外が抽斎を発見した時の喜びは想像に難くない。勤勉かつ禁欲的なところなども、実に似ている。鴎外が描いた歴史人物でこれほど共感をもって描いた人物は他にはいないだろう。
 鴎外の文学は全般に自らの生き方を絶えず追究するものであったが、その結果彼は同時代小説から歴史小説に方向転換しさらに「史伝もの」という独自のスタイルに到達し、「渋江抽斎」は史伝ものの頂点に位置する。渋江抽斎は鴎外自身の人生の理想像とまではいかないが、自分と同じライフスタイルを持つ自画像の如き人物を埋もれた歴史資料の中から図らずも見出だした、とでもいうべき存在である。抽斎が粛々と自らの職務を果たしながらも時に趣味を楽しんでいる平穏な生きざまに、鴎外は自分の晩年の生き方を重ね合わせていたように思われる。
 本作は抽斎本人以外に妻子・知人・親戚多くの人物が登場するが、それら一人一人に鴎外は関心を抱いたのだろう。とりわけ、抽斎没後の妻子の記述には紙数を多く割いている。抽斎本人は概ね平穏に生きた人だが、遺された妻子は幕末から明治への激動の時代を生き抜く上で苦労も相応にあったようだ。そういう妻五百の良妻賢母ぶりに鴎外は強く惹かれたのではないか。鴎外は抽斎・五百夫婦に理想的な夫婦像を見出したのかもしれない。
 文章は肩に力を入れない、案外読みやすくこなれた文章である。読者は一貫して淡々とした叙述に付き合うことになるが、読み焦らなければ、名もなき一人一人の人物の生きざまが味わい深く感じられるから不思議だ。これは、ドストエフスキーが末端の登場人物一人一人を克明に生き生きとした姿で描いたのと似ている気がする。テンポの速いストーリー展開をもとより期待してはいけない。読者は辛抱強く丹念に読みつつ、登場人物たちが語りかけてくるのを待つぐらいの気持ちで読むのがよいのではないか。名作とはおしなべて、読者の努力の度合いに応じて湧き出づる魅力の大きさも自ずと異なるものだ。
近代日本文学の最高峰??? ★★★☆☆
鴎外晩年の傑作という評価が定着しており、例えば丸谷才一は、これを「近代日本文学の最高峰」と讃えています(「プレジデント 50 plus」2009.7.15号別冊)。

「う〜ん・・・。あの、これって、それほどのものなのでしょうか????」

どうも、森鴎外絶対不可侵という雰囲気が、日本の旧インテリ層にあって、めったな事を言っては罰が当たりそうです。

丸谷才一曰く、「よく知られていない人物を題材にして、探偵小説のようにすこしずつその人物のことを解き明かして行く。しかも、そのプロセスが鴎外一流の見事な文章で書かれている」。確かにそうです。尋常じゃないほどの緻密さで、詳細な事実が積み上げられて行く。抽斎本人の年代史のみならず、その伴侶、子供、親、親戚、恩師、弟子、知り合いの知り合いまで、何世代にも渡る人物の生年月日から、墓碑銘まで。鴎外は、縁ある場所を実際に訪れ、徹底的に調べ尽くします。恐るべき「考証力」と言えましょう。

「無名の人物にも、誰も知り得ない深い人生の断面が存在するし、年代を超えたつながりというものが脈打っている。」それは、分かります。ただ、ここにドラマがあると言えるのでしょうか?

ドストエフスキーを、「我を忘れ度の最高峰」といった人がいますが、小説の醍醐味はまさにそこにあるでしょう。「カラマーゾフの兄弟」にひとたび没入してしまうと、その物語世界のめくるめく展開に、濁流にのまれるように翻弄されて行く。登場人物が、実在としてありありと感じ取られ、それぞれの「人生」に、ともに泣き、喜び、怒り・・・。まさに「我を忘れさせてくれる」のが文学であると。

その点から、この「渋江抽斎」が「近代日本文学の最高峰」であるとすると、正直、ちょっと寂しい気持ちがしてしまいます。

まず、主人公抽斎の人柄というものが、一切伝わりません。ひたすら読書と調べ物が好きな医者ということ。それだけに近いです。そういう意味では、奥さんの「五百」の方が、まだ人間味が感じられます。ご主人の身が危うくなったとき、風呂から飛び出し裸で短刀を忍ばせていく。なかなかのエピソードです。

しかし、主人公そのものがこれだけ存在感の薄い物語って、ありなんでしょうか?丸谷才一も「鴎外の小説に出てくる人物に魅力がない」と認めています。え?それって致命的でないの??

さらに、「渋江抽斎の続編である「伊沢蘭軒」、「北条霞亭」と読み進めていくこと」を薦めていますが、正直、もう十分という気がいたします。丸谷先生に質問してみたいです。「例えば、あくまで例えばですが、三島由紀夫の『豊饒の海』と比べても、『渋江抽斎』の方が上でしょうか?」と。
最高傑作かも… ★★★★★
鴎外は医者だった。だから彼が医師について書くのは当然かもしれない。この文庫は、ただの伝記ではない。鴎外の主観が入っているから…けど勘違いしないで欲しい。本書は鴎外が官僚で医者であるから見方が偏っている、という勘違いがまかり通って(?)いるかもしれないので書いておくが、決して鴎外Onlyの視点から描かれた(『書かれた』ではない)本じゃないのだ。客観的事実と自身の主観のバランスが絶妙な味をかもし出している。お世辞抜きで面白い本なのだ(一般的には凡庸で退屈な本だと思われているが)。歴史的記述もこぼれ話も同等に扱っていることも指摘しておく。ここを押さえておかないと本書の面白さがわからないかもしれないから。バルザックのように「キャンヴァスに塗りたくる」のではなく、我々にまるでお茶でも注ぐように静謐としている。繰り返すが、冗談抜きで面白い本なのだ。