擬似問題としての世界史?
★★★☆☆
耶律楚材論以来親炙してきた著者ですが、本当のところがよくわからないのです。神ならぬ人間が作り上げてきた歴史ですもの、いずれ己の甲羅に似せて穴を掘るわけで、モンゴルのみを特別視する理由はありますまい。それにグローバリズムの先蹤と言われて彼らは嬉しいのかどうか。アフリカ、南北アメリカあるいはオセアニアのネイティヴ歴史家(いたとして)なら、「えらい勝手なこと言うてるな」と思うのではないでしょうか。
スケールも、大きすぎると、たやすく床屋政談的地政学やら俗流ヘーゲル歴史哲学に堕しますし、お勉強好きな官僚が勘違いして新手の大東亜共栄圏などを夢想しかねませんから、くわばらくわばら。世界史がいつ、どこで始まったのか、評者にはどうでもよい問題に思えてしかたないのですが。
日本文明の独自性を「間接的に」あきらかにする内容の本
★★★★★
本書は「ユーラシア」とは何かについて、歴史学の立場から一人で全体像を描き出そうとした労作である。ある意味、不可能なことをあえて実行しようとしたドンキホーテ的な試みであるかもしれない。語学だけでもモンゴル語、ペルシア語、漢文・・・と膨大な量の史料を読みこなさなければならない研究分野でるからだ。
1206年のチンギス・カンによる「大モンゴル国」の成立により、はじめて「世界史」が誕生した。ユーラシア大陸を舞台に、世界がつながったのである。これは本書のなかでも触れられているように、日本のモンゴル学者による日本発の世界史認識である。
中国や中央アジアだけでなく、中近東からインド亜大陸、そしてロシア東欧に至るまで、いかに「モンゴル帝国」が後世に与えた影響が大きかったか。モンゴルによる統一国家である元が滅亡したのちも、モンゴルが作り上げた政治制度とチンギス・カンの権威は、清朝滅亡にいたるまでユーラシア大陸では正統性の源泉となり続けた。
本書をよむと、日本がなぜグローバリゼーションの波に乗れたのか、間接的な説明となっていることに気づかされる。本書では直接言及されていないが、梅棹忠夫が『文明の生態史観』として提出した仮説を、間接的に裏書きするものとなっているからだ。日本はいうまでもなく、ユーラシア大陸国家ではなく、西端に位置する英国と同様、ユーラシア大陸の東端に位置する島国である。
著者は、ユーラシアの「ランドパワー」の重要性が忘れ去られたのは、16世紀に西欧から始まった第一次グローバリゼーションが「シーパワー」中心の文明であることの影響が大きいという。それ以前の風まかせの帆船ではなく、19世紀の蒸気船の発明により動力源を備えた自走船時代をリードしたのは、近代科学と技術を背景にした西欧諸国であった。
もともとが「シーパワー」でありながら、17世紀半ば以降「鎖国」し、シーパワーとしての性格を自ら封印した日本は、この第二次グローバリゼーション時代に開国を余儀なくされたが、その後に海洋国家的性格を取り戻し、西欧中心の世界史認識の枠組みのなかで思考し行動してきた。このこともまた、大陸への軍事的経済的進出という形でコミットしながら、ユーラシア大陸内部で働くロジックの理解を困難にしたことは否定できない事実であろう。
著者は本書のいたるところで、西欧中心史観への異議申し立てを行っている。それはそれで結構なことであるが、私は本書を通読することで、ユーラシア大陸内部の諸問題には深入りすることなく、あくまでも「シーパワー」(海洋国家)としての自らのアイデンティティを明確に認識し行動することこそ、日本の生きる道であると、あらためて確信するにいたった。
日本人が、ユーラシア大陸内部で起こっていることにはあまりにもうとく、自分が見たいことだけ見がちなことは、かつてNHKで放送されて大ヒットした「シルクロード」のロマンチックな映像詩を思い出せばそれで十分だろう。
私自身の自省も込めて記すが、日本人の多くが、ユーラシア大陸の「大陸国家」中国についても、本当の意味で理解しているとはいいがたい。根本的に「ランドパワー」である中国は、根本的に「シーパワー」である日本とは、まったく異なる文明なのである。近年、海洋進出を活発化させている中国であるが、本質的に「ランドパワー」あることには変化はない。
ユーラシア大陸内部の歴史は、日本にとっては「反面教師」そのものである。これは、著者が伝えたいメッセージではないかもしれないが、読んでいて私はその感を強くしたのである。日本はユーラシア大陸内部の問題には深入りすべきではない。アタマでは理解できたとしても、感覚的に理解できないからだ。
本書には、実に多くの固有名詞がでてくるが、一読後はすべて忘れてしまってもまったく問題ないだろう。
ユーラシア大陸内部で働くロジックについて、おおざっぱながらも把握できればそれでよしとしたい。そのためにもぜひ読んでおきたい本である。
アフロ・ユーラシア視点から世界史を再構成
★★★★☆
モンゴル史を専門とし京都大学で教鞭を執る杉山教授の著作は、「NHKスペシャル・文明の道・モンゴル帝国」(欧州に先駆けてアフリカを捉えていた世界地図「混一彊理歴代国都之図」と、帝国第五代フビライ皇帝の業績が印象的でした)以来二冊目。本田實信・故京都大学名誉教授(ペルシア語文献とイスラム写本研究で業績)が主著『モンゴル時代史研究』(一九九一年)で“首唱”したとする、「日本発」の世界史観−十三世紀のモンゴル帝国による東西の繋がりと纏まりに“世界”の始まりを見る見方−は、岡田英弘・東京外国語大学名誉教授(『世界史の誕生』など)と共通します(実情は各論と歴史学者としての姿勢で両者はむしろ相克・葛藤か)。従来の欧州中心史観とその流布を批判(時に感情も内包か)しながらアフロ・ユーラシア視点からの歴史の再構成に挑戦。ペルシャ語の『集史』原典の読み込み(世界史のアプローチ)、『カタルーニャ地図』(Catalan Atlas、仏国立図書館蔵)の分析(世界図のアプローチ)、ネストリウス派キリスト教僧侶のラッバン・サウマーによる大旅行記(現在の地名で北京から仏ボルドーまで、一九三二年に日本語訳も)の引用などの知見に、前諸作からの深化を見ます。「アフロ・ユーラシア世界というかたまりの出現、東西のほとんどがオープン・スペースと化した大交流、そしてその結果としての文明の枠をこえた共通化への道、さらには文字どおりの世界と人類という立場への扉」をしてモンゴルの最大の“遺産”と評した箇所が最も心に残りました。こうした“モンゴルの価値”を映し出す学術の追求は、心ある今日のモンゴル青年を大いに刺激し惹きつけます。書籍タイトルには、そうした歴史観の転換、あるいは世界史の重要なステップ、陸からの視点、などを反映させてはどうかと思います。さらなる研究進展に伴う続刊が期待されます。
『モンゴル帝国と長いその後』
★★★★★
本書でまず圧倒されるのはその壮大な問題意識である。モンゴル帝国はこれまでの西洋中心史観、あるいは中華史観の枠組みにあって不当に軽視され、あるいは負のイメージを付与されてきた。著者はそれを歴史における「知の虚構」であるという。そしてグローバル化の時代にあって紛争や対立を乗り越える思考が求められている今、「文明の衝突」などといって「歴史の必然めいた諦観で打ち眺め」ていることなく、人類の来し方行く末をきちんと見据えるためにも人類に共有される歴史像・世界史像を構築する必要があるという。本書は、そんな問題意識を根底に置きつつ、モンゴル帝国が生み出したアフロ・ユーラシアの「大統合」とその後の歴史を描きつつ、現在にまで至る世界史を駆動させたモンゴルの歴史的意義を再考するものである。
著者が言うように西洋中心史観では「大航海時代」以後でしか「世界史」像は語られることはない。(それ以前は各地域にそれぞれの文明・文化圏、プロトタイプの国家がバラバラに孤立して存在。)言われてみれば確かにそのとおりで例えばウォーラステインですら、大陸を越えたヒト・モノ・情報のネットワークや近代資本主義の成立といったものの起源は「大航海時代」を切り開いた西洋諸国にあると見ているといえる。だが、本書は13世紀に始まるモンゴルによるアフロ・ユーラシアの東西「大統合」とその影響を見据える。大清国やオスマン帝国、ロシアやハプスブルクといったポスト・モンゴルの時代に世界各地に存立した「ランドパワー」の数々は紛れもなくモンゴルの遺産であり、また、大元ウルスを中核とするモンゴル帝国のユーラシアの大統合は支配システムや銀を共通価値基準とする経済を普及させた。「資本主義」の基点は「大航海時代」のみならず、モンゴル時代にこそ求められる可能性があるという。大航海時代の「海進」のみならず、モンゴル時代が切り開いた「陸進」もまた「世界史」の重要な駆動力であったことが実感される。
中国史、ロシア史、ヨーロッパ史…様々な領域において高校世界史以来の自分の歴史認識が次々と転覆させられていく。知的刺激にあふれ、著者の壮大な問題意識には舌を巻き、「客観的な世界史」とは一体何なのだろうかと考えさせられる一冊。傑作。
モンゴル草原から世界史を見直す
★★★★★
杉山正明氏の一連の著作と重なる部分も多いが、興亡の世界史シリーズの一環として構成された一冊である。
チンギス家、モンゴル帝国、大元ウルスの興亡について、その「神話」や「偏見」のベールを壮大にして緻密な史料批判によって剥いでいき、正当な世界史像を提示していく。「国民国家」や「民族」、「大航海時代」なる用語や概念が西洋や中華史観の一面的なものに過ぎないことを示す。西洋や中国、インド、中東、そして日本もモンゴルの強烈なインパクトを相当に被っているのである。その結果提示される世界史像は我々の既存概念とは大きく異なり、驚く方も多いであろう。
真に21世紀の人類が共有できる世界観が目指されている。杉山氏の同構想の著作や、同シリーズの関連する著作にあたり、より深い世界史の思索を楽しまれることを勧めたい。