財前教授が癌に
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財前教授が癌にかかっていることがわかる。しかも末期で、自分の勤務する病院に入院することにする。(自分の所属する大学病院にかかることがもとめられる、と聞いたことがあるが、財前もそのとおりにするのであった。)癌の治療にたずさわっていながら、自分の体の異変を放置していた結果なのである。地位にしがみつくことだけに固執するのではなく、自分や他人に優しく誠実であることが大事なのだと思った。財前が亡くなった後、里見が大学病院にもどり、病院長にまでなり、大学病院をすばらしいものにした、という話がこの本の後に続けばよいな、と感じた。
著者のいう「強烈な人間ドラマ」が巧みに描き出された傑作品!
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リメイクドラマとしても異例の2クールをかけて放送された『白い巨塔』は、今なお多くの人の記憶に残っている作品に違いない。原作を読んで、そのときに受けた鮮烈な印象が直ちに蘇ってきた。最終巻である第5巻は、医事裁判の控訴審の結果と主人公である財前五郎の死が、それをめぐる「人間ドラマ」を背景に巧みな筆致によって叙述され、文字通りのクライマックスの巻だ。自分が癌であることを当初知らされず、自分の病状に疑問を抱いた財前は、彼にとってまさに唯一の旧友である里見に尋ねる。「真実を教えてくれ、僕は医者だ、しかも癌専門医だ・・・、その僕が自分の症状の真実を知らずにいるのは、あまりに残酷だ!」(391頁)と詰め寄る。なんと皮肉な発言であろうか。自分の注意義務怠慢によって急死した佐々木庸平も自分の死の真実を知らずに死んだのであり、そしてその後の医事裁判においても、財前は「真実」を隠蔽するために数多くの偽装工作を施したからだ。しかしその財前も自らの「死」に対面して、「医師というものがどういうものか、そしてどうあるべきか」を初めて悟るのである。田宮二郎版のドラマ『白い巨塔』の「終章」でもその発言が生々しく語られている。私が最も印象に残ったシーンだ。大河内教授に残された封書には、「自ら癌治療の第一線にある者が、早期発見出来ず、手術不能の癌で死すことを恥じる」(401頁)とある。それは財前の最後の言葉であり、医師という本来の道から逸脱した言動に対する心からの反省でもあろう。一度は完結した小説の「続編」を刊行する決意をした著者の心境から察すれば、財全五郎の「死」をもってその続編を締めくくることが不可避であったのかもしれない。本書は、人間の生と死・尊厳、医師の役割、医療のあり方といった、本来は扱うことが実に困難なテーマに果敢に挑んだ文字通りの傑作品である。現代において本書が有する意義はその輝きを増している。
現実の不条理さ
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山崎作品は現実の不条理さを前面に出すからハッピーエンドにならない。
白い巨塔もその1つだろう。がんばったからといって報われるとは限らない。
また、財前五郎という主人公を通して、自業自得というか因果応報というメッセージも
発しているのではないだろうか?
また、この作品は最初は、里見が一方的に負けて癌センターに流されて終わり
だったのが、読者からの抗議で「続 白い巨塔」で財前が死ぬことになったのだとか。
久々に小説らしい小説を読んだ気がします
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「白い巨塔」「続・白い巨塔」を合わせた、文庫本にて5冊からなる大河小説も、いよいよ終わりを迎えます。
高裁まで持ち込まれた医事裁判の争いが、クライマックスになるとはいえ、最終巻は、これまでに張られた伏線−例えば、主人公の前の教授、愛人、庇護者たる現医学部長、そして、主人公とは正反対の性格で、もう一人の主人公というべき里見等々−の真実の姿がさらけ出されるのが、本書のクライマックスといえるのではないでしょうか。
果たして、医事裁判の行方は、その後、財前・里見たちはどうなるのか。さらには、医学とは。そして人間とは。ストーリーにドキドキするとともに、「ああ、読み終わったなあ」という感慨を抱かせる、骨太の小説でした。
大円団
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第五巻は、学術会議選挙、控訴審と、よいテンポで、ドラマチックに展開する。ドラマされた際、主演の田宮二郎がみごとに、財前の外面と内面を演じていた。最終回の放映を確か待たずして物故したことは、衝撃的で、未だに謎である。ケイ子役も、太地喜和子は、まさに彼女を想定して原作が書かれたのではないかと思えるほどマッチしていた。台湾でもこの原作はドラマ化されているが、より艶っぽい演出であった。