教養の根ざす場所を、実践した立場から改めて教えてくれていると思う
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いきなり本文が始まって、同じ調子で淡々と続く。日本と中国の文学史を逍遙しながら、過度に情熱的になることもなければ、くだけすぎることもなく、品位を保ったまま同じペースで歩んでいく。そんな講義録風の印象を持つ本書は、苦手な一科目に過ぎなかった漢文に新しい魅力を見せてくれた。
特に印象的だったのは、かつては総ての教養が四書五経に根ざしていて、それを引用しながら拡張して詩作で自らを表現することが知識人の基本であったという事実を改めて認識したことだ。漢文的表現は故事成語の解釈として老荘の教えや、三国志、水滸伝といった部分的文章でしか触れていなかったし、詩文にはあまり興味は無かったのだが、少し見方が改まった。
中国古典が日本歴史を遙かに越えた古代のものであることに感嘆したり、幕末の志士、森鴎外、夏目漱石または魯迅など近世から近代に至る知識人のエピソードに感心したりと、楽しませて貰った。
あとがきによると書名に「漢文」とつけることには踏ん切りがいったそうである。しかし、中島敦への論評をに対して「漢学的教養が強調されるのだが、素養なるものをブラックボックスのように扱って、折り畳まれた襞の深さに及ぶことがないのなら、かえって目が曇りはしないか」と論者に冷や水を浴びせるところに、漢文を自ら踏まえてきた著者の矜持を感じて、「やるなぁ〜!」と痛快だった。
「漢詩文から広がる世界の、多様な味わい」
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先ずは「漢詩文」に関連して、本書の「著者」が昭和38年(1963)生れの世代であることを知り、戦前生れの「筆者」は感服すると同時に、一読讃嘆!これら若い世代に託する「漢詩文」の将来に意を強くした次第である。即ち、これら「漢詩文のジャンル(文芸様式)」は「老学者先生」の範疇であるのが定番だと思い込んで「本書の頁」を捲ると、その「編纂の内容」は如何にも「今様」であって、感服するは元より、「漢詩文から広がる世界の、多様な味わい」を伝える本書の各章各節に首肯するばかりである。
具体的には、「T・詩想の力」、「U・境域のことば」、「V・漢文ノート」と三部に分けて、しなやかにも的確に考証を重ねた「著者」の「筆力」と「筆感」は、それら記述の「視座」は、戦前生れの「読者」達には想いもよらぬ「感懐」と「読感」を齎らすのである。
特に「U・境域のことば」中の「1.北京八景」には、「各処名所の写真」が数々挿入され、夫々の「漢詩文」の解説記述とその敷衍は、それらに纏わるエピソードとも相俟って、「読者」に鮮明な読後感懐を齎し、且つ、判り易くも充分に得心させて呉れるのである。
一方、本書末尾に掲載された「初出一覧」で、夫々の出典を明らかにしているのはともあれ、「あいうえお順」に網羅した「人名索引」を併載しているのは、本書の「価値基準」をいやが上にも高めている。それは「読者」に「読み捨て」にするのではなく「保存版」として各所に活用すべきことを促しているとも言える。
只、本書「著者」の世代には当たり前かも知れぬが、「横文字/カタカナ語」が随所に散見されること、前後の文脈から凡その見当はつくとは言うものの、戦前生れの世代にはやはり辞書で確かめないと不安が残るのも事実であろう。
例えば、*エクリチュール=ecriture=文字言語、*ステロタイプ=stereotype=決り文句、紋切型=ステレオタイプ、*ターム=term=述語、言い分、*アンソロジー=anthology=名詩選集、詞華集、*クリシェ=cliche=紋切型、決り文句、*アナロジー=analogy=類似、類推、*ジェンダー=gender=性差、*コンテクスト=context=文脈、事件などの背景、・・・・・など、老若の世代を問わず「注記」が有れば、一層読みやすくなる筈である。
楽しく読め、知識も増える!
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『漢文スタイル』というタイトルを聞いた時、人は、何を想像するだろう? 日本での教育を受けた人であれば、中学・高校の授業科目であった「漢文」をまず想像してしまい、あの時に培かわれたステレオタイプ=漢文、という先入観を持つに違いない。
ただし、ここで言う「漢文」は、中国のみならず日本を含めた東アジアの知識人層の教養の基礎となっていたエクリチュール+思考のようなもの。本来難しいものなのだろうが、斉藤氏のエッセイは、それを優しく優雅に切り開いてくれているので、楽しく読め、知識も増える。この『漢文スタイル』を一読した後は、不思議なことに、詩人・旅人・隠者たちが綴った文章の断片に、様々なものが見えてくるようになる。単なる意味ではなく、美、運命、予言、呪といった様々なイメージがコトバから湧き出してくるのを感じるようになる。掘り起こされたコトバの記憶が突如輝きを放ったのを見たら、あなたは、もう、この世の住人というよりも、漢文脈で綴られた宇宙の住人。
個人的にとりわけ好きなエッセイは、「詩讖」や「詩妖」に関する一節だった。「讖(いん)」とは、予言であり、経書が経(たていと)の書であるのに対し、讖の解釈が書かれた書物は、緯(よこいと)の書、つまり緯書と呼ばれていたらしい。中国では、詩人が読んだ詩が予言となることがしばしばあったという。言葉が運命を変えるという根強い考えが長くあったわけだ。また、「詩妖」は、作者はわからないが、民間や子供の間に流行った奇妙な流行り歌などが政変や天変地異を予言することを指す。歌と呪は同根であるからに、「一見して奇妙な歌でなくても、歴史の文脈によって何かの前兆となる可能性は、すべての歌に含まれることになる」と、齋藤氏は言う。近代以降、私たちは言葉は人間が操るものという概念を持っているけど、本来は、コトバの織り成すに見えない運命の糸に絡められて生きているのだと思う。
著者の斉藤希史さんは、2005年サントリー学芸賞漢文脈の近代―清末=明治の文学圏の著者であり、東京大学大学院総合文化研究科の准教授。