独我論の論駁
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ウィトゲンシュタインは独我論者だとよく言われる。「だれも私を理解できてはならない、ということが本質的なのである」という『青色本』における彼の言葉を見る限りは確かにそう読める。だが『哲学的探求』において、彼は自分の独我論に対し批判的な態度を取り始める。本書はそんな『哲学的探求』を手引きにしながら、ウィトゲンシュタインと共に独我論の反駁を試みたユニークな哲学書である。
他我問題。他人に心はないのではないかという、だれもが一度は考えたことがあるこの難問は他者と共有することができず、一見したところ解決は不可能であるように思われる。それはそうであろう。他人にも心があることを、私はどうやって証明することができるというのか。それは黙って墓場まで持っていくべき、口にしてはならない問いではないだろうか。
だが黒崎は冒頭で宣言する。独我論を論駁することは可能である、と。そのアクロバットに黒崎は、前期ウィトゲンシュタインから後期ウィトゲンシュタインへの跳躍を援用しつつ挑戦する。すなわち意味の対象説から意味の使用説への言語観の回心である。
例えばわれわれは「痛い」と言う。あるいは言わないまでも痛みを表出する。表出を伴わない痛みなどあるだろうか。そして表出を広い意味での言葉ととらえるならば、痛みは言葉の対象ではない。むしろ言葉の使用によって痛みは制作されるのである。
自我も同様である。言語の使用によって「私」は成立している。言語ゲームの外では「私」は意味を持たない。そして言語ゲームとは他者すなわち他我との関係である。他者から独立した私的言語はありえない。ゆえに独我論は成立しない。
黒板に書くような説明図がところどころに配置されており、分かりやすい構成になっている。独我論の論駁に成功しているかどうかは議論が分かれるかも知れないが、読者への配慮が随所にうかがわれる好著である。