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歴史哲学講義〈下〉 (岩波文庫)

価格: ¥1,091
カテゴリ: 文庫
ブランド: 岩波書店
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神の自己展開としての歴史段階 ★★★★☆
ドイツ観念論の典型的な書であるヘーゲルの「歴史哲学」は、歴史的動因を人間の内面性に求める。人間社会の歴史過程は、人間そのものの持つ、欲望の自己展開であるというのだ。人間の持つ諸欲動の論理は、それらが置かれている状況に規定されて、行動の必然性を誘発する。神とは倒錯された人間そのものであり、人間の特質に関する問題こそが、歴史という現象の背後に在って、現象を誘導している源体に、他ならない事を力説する。多くの歴史書は、記録としての記述に終始し、現象の内面の真の熱源を開示することなく終わるが、ヘーゲルに到っては、行動する人間の必然性の根源を論じて、人間の特質と、歴史の自己展開を白日の下に開示する。

ヘーゲルの哲学大系の中で、「歴史哲学」は、頗る評判が悪い、特に東洋の章での諸国家の認識は、その資料を何処から入手したのか?と、勘繰るほどの錯誤感があり、暗に、東洋的低劣な、という言い方で後進性を、殊更、強調される事は、恐らく、日本語で読む者にも、大いに自尊心を疵付けられる事であろう。ヘーゲルは、フリードリッヒ・シュレーゲルの歴史論を、高く評価していた。シュレーゲルは、インド哲学、ヴェーダ思想、仏教、東洋思想に造詣が深かったらしい、ヘーゲルは、そこから何らかの知的影響を受けた可能性はある。それは、ショーペンハウエルも同様だが。ただ、ヘーゲルの生きていた時代を思えば、彼の現状認識にも、自ずから限界はあろう。この歴史哲学は、生前の公刊ではない。講義を聞いた弟子達が、ノートを持ち寄って編纂した著作である。ヘーゲルの哲学大系が、完璧で無い事は自明の理であるから、彼自身「この世に完璧な物などは存在はしない」と言明しているではないか。もしも、ヘーゲルの言説で完璧な物が在るとしたら、「この世に完璧な物など存在しない」と、謂う公理であろう。如何なる人間も、無から有を生む事は出来ない。其処には、恐らくヘーゲルの進歩主義的観念論の思想の種子と成るもの、或いは核と成ったものが在るはずだ。ルソーの影響はその核の一つであろう。思想的力が飽和状態にあるとしても、一つの核が無ければ、それは一つの雨粒として結実しない。ヘーゲルの知的飽和を思想として結実させた、その核を知りたいと思う。

観念論は、一人の人間の精神の発達に於いて、一生に、一度は通過しなければ成らない、精神発達の一段階である。もしも、歴史哲学に、その誤謬に満ちた誤認が在ろうとも、人類の歴史の本質を、人間自身の観念的内面に求めた歴史観が、ヘーゲル以前にあったであろうか?ヘロドトスの「歴史」も、司馬遷の「史記」も、事実の集合体であり、立派な記録であるが、それ以上の物では無い。過去に歴史は、その様に書かれてきたのだ。しかしヘーゲルは、歴史を動かす動因を、人間の精神の発展段階に求めるのである。観念的といえば、これ程、観念的な歴史観は無いであろう。悪く言えば、独善的空想であろうか。其れでも、ヘーゲルの観念論は、そこから、新たな芽を吹く豊富な種を付けている事を疑う者は、居ないであろう。あらゆる著作には、事実を述べる限りは、時代制約の限界がある。人間は未来を正確に予言は出来ないからである。ヘーゲルが、理性から精神への意識経験の学を論じて、人類の発展段階を、所謂、西欧文明の世界制覇を理念としていたとするのなら、それは、また、別な意味で誤謬である。投稿者は、それよりも、東西文明の機軸の差異、思考様式の差異と謂った、文明の根幹にかかわる差異が、どうして生まれたか?、和辻哲郎ではないが、自然界がもたらす、人間の気質・風土、と云った考察の方に関心がある。
長谷川宏訳・ヘーゲル「歴史哲学講義」の画期性 ★★★★★
長谷川宏の翻訳文は日本語として見事でこの一冊を丹念に読めばこれまでの「いかめしくリクツ先行の観念論哲学者ヘーゲル」などという観念をどこかにちょっとでももっている、もっていた人のヘーゲル観をさわやかにも力強く打ち砕いてくれるでしょう。翻訳のありかたということについても大変考えさせられる本です。オーバーな!と思う人にこそぜひお薦めしたい一冊です。
「歴史哲学」とは何だろうか ★★★★★
本書上巻では、冒頭、ヘーゲル自身の「歴史哲学」の理論が述べられている。往々、ここの部分が取りざたされ、以下の具体的な論述は、反故にされ付け足し扱いされている。しかし本書は、この「付け足し」を楽しんで読むことから始まるとも思える。本書全体は、「自由」という理念を求める人間の歩みを歴史の中に読み取っていくものであり、「自由」とは人間の欲望の制限を取り外していく運動である。これは極めて根本的で永続的な発想で、且つ無理のない枠組みだ。しかし、本論を読むと、そのような主軸よりも、むしろ、いろいろな歴史的事実を、ヘーゲルが咀嚼し、彼自身の、各時代の「映像」を描き出す面白さがある。私は、「歴史」とは最終的にこれが出来なければ駄目だ、と思う。個々の事実に拘泥し、真実はこうだ、ここは間違っている、と「事実」と称するものの、「厳密さ」を競い合っても、所詮は似非科学だと思う。その「厳密さ」の定義も結局自己保身的な「定義」で終始されるか、自然科学の限界を指摘して「だったら人文社会科学も同じだ」と開き直る消極的な満足に陥るだけだ。勿論、実証的な研究は歴史には不可欠だし、明らかに間違った事を言い立てて良い訳ではないが、「厳密さ」ばかり言っていると、わずか数年のことさえ断言できなくなってしまう。何のための歴史か、といえば、細かいことはともかく、大筋において公認されている事実と自身の解釈を交えて、自身が各時代にどういう「映像」を描けるか、ということにあると思う。そして、これこそ、実は「文化論」なのだと思う。というわけで、本書は、ヘーゲルの「文化論」と言ったほうが話が早い。上巻の「アフリカ」論や「漢字」論など、哄笑を誘うほどに無茶な議論もあるが、一概に馬鹿に出来ない真理を衝いている点は天才的な直観力だ。下巻のギリシア以降は、流石に強い。ギリシア文化論などは、「アキレウスが作りアレクサンダーが閉じた」とするところに「ギリシア」の「映像」を見て取るヘーゲルの素晴らしい感性に共感したい。ローマの評価が低いのががっかりだ、とか、いろいろあるが、別な面のポイントを衝いている点があり、教えられる。山川出版の高校用の「世界史」が分かっていれば、十分理解できる内容だが、ときに、現地の人間でなくては知らないような細かな事実も出てきてそれも面白い。理論面では、カントとシラーらの歴史哲学をほぼ承継しそれを纏め上げたもので、オリジナリティではヘーゲルの中では高くはないが、全体として面白い作品に仕上がっている。翻訳はそれを損なわない良いものだと思う。あまり頭でっかちな議論に拘泥せず、読んだほうが良いと思う。
発展過程としての理念 ★★★★★
フランスは七月革命によって40年にわたる戦争と大混乱はおわりをつげ、社会は一応の安定をえたとはいえ、「一方にはまだカトリックの側からする分裂の要因があり、他方には主観的意思のもたらす分裂の要因がある。」主観的意思にもとづく自由主義思想は、「原子としての個の意思という原理」をうちたて、社会のすべては、個人の参与する公然たる権力と公然たる同意によって動かされねばならない。このような形式的かつ抽象的な自由は確固たる組織を成立させることができない。「特定の政治機構はは特定の意思であり、つまりは、特定人のわがままだという」。こうしてこれまでの反対党が政権につくという形で不安定な動きがつづき、「この相克、この交錯、この問題は、いまわたしたちの歴史に突きつけられているもので、未来の歴史が解決しなければならない問題です」とおわりに近い箇所で語っています。歴史理論はドイツにおいてその最終局面をむかえることになっていますが、そうでないことがわかります。普通の意識をもつ人ならば、ある特定の時代で歴史がおわると考える人はまずいないでしょう。「自由の意識としてあらわれるほかない自由の理念の発展過程」と「過程」としてとらえている。

そもそも理念とはなんでしょうか。理念はプラトンやカントおいて当為であったようにヘーゲルもそれを引き継いでいます。現実も同じ意味です。観念(理想・本質)と実在(事実・現象)との統一が理念であり、現実であり、理性(ヌース)です。簡単にいえば、当為、「かくあるべし」です。だから理念も現実も未来を含んでちģ~す。このことは「論理学」で理念論の前に「目的論」が位置していることからもわかります。目的とは未来のことです。ヘーゲルの自由の理念は終わることなくつづきます。もう少し正確にいえば、理念はおわりを含んだはじまりです。フクヤマの『歴史の終わり』は理念を現在の事実とみた理論です。