フランスは七月革命によって40年にわたる戦争と大混乱はおわりをつげ、社会は一応の安定をえたとはいえ、「一方にはまだカトリックの側からする分裂の要因があり、他方には主観的意思のもたらす分裂の要因がある。」主観的意思にもとづく自由主義思想は、「原子としての個の意思という原理」をうちたて、社会のすべては、個人の参与する公然たる権力と公然たる同意によって動かされねばならない。このような形式的かつ抽象的な自由は確固たる組織を成立させることができない。「特定の政治機構はは特定の意思であり、つまりは、特定人のわがままだという」。こうしてこれまでの反対党が政権につくという形で不安定な動きがつづき、「この相克、この交錯、この問題は、いまわたしたちの歴史に突きつけられているもので、未来の歴史が解決しなければならない問題です」とおわりに近い箇所で語っています。歴史理論はドイツにおいてその最終局面をむかえることになっていますが、そうでないことがわかります。普通の意識をもつ人ならば、ある特定の時代で歴史がおわると考える人はまずいないでしょう。「自由の意識としてあらわれるほかない自由の理念の発展過程」と「過程」としてとらえている。
そもそも理念とはなんでしょうか。理念はプラトンやカントおいて当為であったようにヘーゲルもそれを引き継いでいます。現実も同じ意味です。観念(理想・本質)と実在(事実・現象)との統一が理念であり、現実であり、理性(ヌース)です。簡単にいえば、当為、「かくあるべし」です。だから理念も現実も未来を含んでちģ~す。このことは「論理学」で理念論の前に「目的論」が位置していることからもわかります。目的とは未来のことです。ヘーゲルの自由の理念は終わることなくつづきます。もう少し正確にいえば、理念はおわりを含んだはじまりです。フクヤマの『歴史の終わり』は理念を現在の事実とみた理論です。