読めるヘーゲル
★★★★★
岩波文庫に入っているヘーゲルの著作は、
何十年も前から横目で見ては来ましたが、
とても読めたものではありませんでした。
そもそも訳文が、日本語として意味不明、理解不可能でした。
英訳本の方が、よほど make sense するものだったと
思います。
この長谷川宏さんの訳は、嬉しいことに、日本語として
readable、理解可能です。
ようやく「読めるヘーゲル」に出会うことができました。
レヴィストロースのいう「第一級の民俗誌的資料」として…
★★★★☆
本書はヘーゲルによる「世界史」講義だ。ただしそれは、「序論」で彼自身
によって説明されるが、人類の理性の発展そのものが世界史の発展とい
う地続きになっているという彼のある意味特殊な歴史観によるものである
ことは考慮に入れる必要がある。
実際に高校の世界史の授業だと、ギリシャのあとになぜだかローマにいく。
普通に考えればギリシャならその次もギリシャではないと辻褄が合わないと、
「現代的知性」を持つ高校生は思うはずだが、ヘーゲルによればそうでは
ないのだ。民族は固有の理性をもち、その発展には限界があり、それ以降
はまた高次の精神をもつ別の民族がさらなる世界史を受け持つのだそうだ。
だから、国家が成立して以来最初の民族で「理性が内面性を獲得してい
ない」という中国人や、「自立性や自由や人格が欠けている」というインド
人のあつかいはひくほど酷いものがあって、この上巻の終わり、次第にヨー
ロッパに地理的に近づいてくるペルシャは努力賞くらいのあつかいを受け
ている。
結局このヘーゲル哲学は、マルクスによって直接的に否定され、ニーチェと
フロイトには間接的に否定され、さらにその三人を「こいつらマジやべぇ」と
賞賛したフーコーには、「世界史の外部」があることも「発見」される。
しかし僕らはそれら先人たちの偉業をもって、ヘーゲルの哲学圏内を完全
に突破できたかといえば、それは否だ。いくら「歴史は終わった」と叫ばれ
ようが、単線的に進む歴史観というのは僕らの観念には根強く残っている。
そしてなによりも、「ヘーゲルは超克された」という言い分そのものが、「精
神の実現を妨害する真の敵は、精神自身であ」ると説く彼の哲学圏内から
半歩しか抜け出せていないことの、明瞭に証明しているんのである。
最後にですます調の訳についてだが、後にヘーゲル入門書を書いた長谷
川宏が担当していて、岩波文庫の中では格段に読みやすいものになって
いる。
後世の哲学や社会科学の問題意識を引き出した著作群の一つ
★★★★★
本作はヘーゲルの死後に纏められた「歴史哲学」についての講義録のようで、「精神現象学」では内面の弁証法的運動を説明する際に一つの隠喩として機能していた歴史の発展図式を全面的に話題の中心に取り上げている。上巻では、序論と第一部・東洋世界を収録。
序論では、歴史のとらえかたの三つの型を明らかにし、この著作では哲学的な歴史、理性が歴史において、歴史を通じて弁証法的運動を経て発展していく様をとらえていくことを示す。以下、歴史における理性についての内実、世界史の原理・起源・発展法則、世界史に関わる地理的な要素、世界史の時代区分がそれぞれ確認され、以下の論述の準備と予告の役割を果たしている。
第一部・東洋世界では、中国・インド・ペルシャそれぞれの地域の国家形態と機能、宗教などと人々の内面状態についての分析がなされている。
読み進めていくと、すぐに気になってくるのがアジア・アフリカ地域に対する露骨な蔑視の姿勢だ。レヴィ=ストロース「野生の思考」やエドワード・サイード「オリエンタリズム」などを通過している現代からこの著作を読めば、どう読んだとしても納得できない記述や種々の偏見が目に付くのをごまかすわけにはいかなくなる。時代的な制約、と言ってみることもできるが、ヘーゲルに時代的に先行するモンテスキューの「法の精神」では本書に見られるような偏向が遥かに弱いのを見ると、単純に時代的制約が原因と納得することは出来ない。
どうもこんな風な記述になったのは、下巻にある訳者の解説によると、ヘーゲルの議論がヨーロッパ近代の卓越性という結論ありきで始まっているからのようだ。答えが先取りされていることが、途中の議論をある種強引に進める原因になっているということ、これなら納得できるし、このメカニズムはいわゆる「オリエンタリズム」に内在しているロジックの典型でもある。
しかしながら、この著作は非常に意義のあるものだと思う。それは、ここに記述されている内容を問い直すことによって、以後の哲学や社会科学は発展していったことが、読み進めるごとに想起できるからだ。フォイエルバッハへ、マルクス・エンゲルスへと広がる道、ニーチェへと広がる道、キルケゴールへと広がる道、ハンナ・アレントへと広がる道、人類学への道、社会学への道など、思いつくだけでも数々の道がヘーゲルから分岐している。その意味で、後の人々の問題意識を引き出すはたらきをした書物群の一つとして必読の書だと思う。
「講義」にふさわしい新訳
★★★★★
絶対精神なるものの評価はさておき、自らの思想でもって世界を解き明かしてみせようという真の「哲学者」の系譜は19世紀までで途絶えてしまったようです。なにしろ日本では江戸に将軍様がいた時代の書物(講義録)ですから、アジア・アフリカ蔑視が鼻につく部分もあったり時代的制約はありますが、現代思想と称する知的遊戯からは得られない学問の凄みが伝わってきます。論文ではなく学生に向けた講義であることを思い出させてくれる分かりやすい新訳で、これまでのヘーゲル翻訳は一体何だったのかという気になります。
理性の自己認識の発展の過程としての世界史
★★★★☆
内容を一言で述べると、レビュータイトルの通りだが、以下、ここでは私自身の感想のみ述べたい。まず第一に、私はキルケゴールから哲学に入ったので、ヘーゲルのイメージは悪かった。だがキルケゴールだけを読むとヘーゲルを誤解する。ヘーゲルにはヘーゲルの正義がある。ただ単に冷たい理性の哲学者でなく、情熱を理解し、詩的な美しい叙述も含む、実に壮大な歴史の概観だった。
第二に、アジアに対する差別的発言や、ゲルマンについての自己満足的叙述があるにせよ、やはり世界史を一つの視点からこれほど見事に描き切った手腕には舌を巻かざるを得ない。
最後に、何よりも嬉しかったのは、私が初めてヘーゲルの本を初めから最後まで読み切った、ということである。今までどの著書も難解で、途中で投げ出してしまった。だが訳者の力量と、主題が歴史ということで比較的とっつきやすく、初めて最後まで読みとおすことができた。この勢いをかって、次は同じ訳者による『精神現象学』に挑戦したい。