十数年ぶり!故郷の作家との再会そして大江健三郎小説
★★★★☆
大江健三郎は、私の故郷・愛媛県が生んだ最大の作家であり、彼が描く「四国」は私の生地からは車で1時間程度の距離。
彼の作品群を仮に初期・中期・後期と分けた場合、中期までは100%読みました。しかし、何となく「雨の木・・・」を最後に断読。なんとなく「もう、いいかな・・・」と静かに考え、自然に離れて行きました。
で、十数年ぶりに、この本に再会。大江健三郎節は未だ健在なことが判り、恐れ入りました。
ファンの方達には叱責されそうですが、大江が未だ大江であり続けていることに、畏怖を覚えました。恐るべし!
大江より好きだったガルシア・マルケスは、作家として終わった・・・と感じ、こつこつと全集を全て読んでおさらいして自己完結させたばかり。
それを思うと、大江健三郎、健在です。
私にとっての大江文学との関係は「共感」と「嫌悪感」とのせめぎ合いでした。なぜなら、彼の作品は、あくまでも私小説的で自伝的な部分を小説的な世界として再構成することによって成功しているわけで、特に異常なまでの自身のルーツ・故郷へのこだわりは、その舞台である固有な土着の因習、そしてその土着の言葉(方言)が理解できるが故に、自己矛盾が生じます。
私は、18歳で故郷ときっぱり縁をきった人間であり、さらには日本と縁を切ろうとして失敗した人間で、彼は、未だ世界を視野に入れつつも故郷にこだわっている。まるで根無し草のように漂流している私自身と比べると、彼には、確固として築き上げた個人的な王国があり、その世界の中で王様であり続けている。しかもそれを長年にわたり何度も増改築している念の入れようで、作家としての執念を感じました。
あの彼のパワーの源は一体何なのでしょうか?
彼は、我が最大のモンスター作家です。
私にとって、川端は「リリカル・リアリズム」、マルケスは「マジック・リアリズム」そして大江は「グロテスク・リアリズム」の作家と位置づけております。
最後に、一番大江文学を理解するための最短の道として、ノーベル文学賞授賞式での講演「曖昧な日本の私」をお勧めします。あの内容を理解できなかった人は、絶対手を出してはいけない作家だと思います。
この作品は、何となく大江バージョンの「幻影の書」(byポール・オースター)だと評価しました。オースター作品より、参考になりました。
余談ですが、大江のノーベル賞受賞は、未だ私にとっては忘れられない衝撃的な大事件でした。個人的には、「耐えられない存在・・・」「不滅」を合わせて、ミラン・クンデラだと信じていたからです。しかし、冷静に大江健三郎の長年の作家活動とその内容を思い起こせば、当然だったと、今だからこそ言えますが。
彼岸の小説っていうか、僕には何の関係もないお話
★★☆☆☆
日本の純文学?でも、マーケティングやエンタメ的なことを考えずに書ける立場の人って、そうはいない。ノーベル文学賞作家である大江健三郎は、その数少ない一人だと思う。それって貴重なポジションであるとは思うけど、だからって、その書かれた物が他の文芸作品に比べて秀でているか、際立っているかって言えばはなはだ疑問だ。つーか、熱心な大江ファンでない僕にとって、ここに書かれていることの事実関係は分かるけど意味はまったく解んない。まぁ、僕自身の読解力が乏しいっていう資質に起因することなのかもしれないけど...いずれにしても彼岸の小説っていうか、僕には何の関係もないお話だな、って感想である。作者の中で問題系が閉じている感じがものすごくする。それでいて、それを良しとするというか、例えば、これまでの大江を知らない読者には解ってもらわなくてもいい、っていう傲慢さっていうか。インテリとか進歩派とか戦後民主主義を僕は否定する訳じゃないし、ある種、判官びいきなシンパシーもあるけど、そういったパラダイムがすでに終わっちゃっているっていう認識があまりに欠如してるっていうか、ポジションが確立されているから甘んじているっていうか、一種のユルさを感じるんだよな。テメエのことしか考えていない(いいよ、元々そういうポリシーの人ならね。でも、そうじゃないじゃん)。タイトルの訳わかんなさなんて表面的には川上未映子と変わらないけど、全然過激なところ、新鮮なところはなくて、難解なことやってればポジションを保てるっていう一種の安全地帯の中での作品に、今回も収まっちゃってると思う。「新しい人」であり続けることって、いかに難しいことなんだろう?そんな感想である。作者の背景や過去の作品を色々理解出来ていなきゃ成立しない作品なんて、やっぱり脆弱すぎるんじゃないの?
からみつく
★★★★★
例によって、虚実皮膜の語り方で、奇妙な物語が展開される。
全体のモチーフは、グロテスクな児童ポルノであるところの「アナベル・リイ映画」。
冒頭から子供の扮装をして失敗したかのような白塗りの小さな年寄り(木守)が出てきて、
話の気持ち悪さを彷彿とさせる。
著者の筆は、生々しい。物語は、若いとき、中年時代、老年期に分けて語られるが、
若いときの瑞々しさがあるぶん、ヒロインのサクラや木守の老け方の生々しさが際だつ。
サクラ、木守は何年もある映画(の製作)に取り憑かれている。
その映画は、ある種、神話的・呪術的な雰囲気を持つものだが、
それが彼らの独特な歳の取り方とともにだんだんと発酵していき、
最後には何とも「森」的というか、独特に力のある演出にたどりつく。
著者ならではのねばっちこい空気がからみついてくるような読書となった。
サクラの「アーアー」というこれまた著者らしいおかしな表記の声が、印象に残った。
大江晩年のお終いの2冊のひとつと言うが・・
★★☆☆☆
・・元々ぼくは、大江作品の熱心な読者では無かった・・けれども初期の作品群や「政治少年死す」などを少ないながら愛読してきたつもりでいる・・そして本作は?
正直大江の「私小説」的な語り口で進められた文体に誘えながら何とか胸に期待感を持って読み進んだのであるが・・・
雑誌「波」での大江のインタヴューやNHK「週間ブックレヴュー」などを参考に著者大江が、この作品に並々ならぬ意気込みを持って書き終えたのは解かった・・
けれども、実際にいざ「読了」してみると「感動」とかとは全く無縁なともかく読了したという「達成感」とも違う一種の「義務感」のような「空虚」しか残念ながら残らなかった・・・
大江がこの本を書いた動機は、なるほど理解出来たが、それを読者へ提示する意味が今ひとつ理解出来ないのである・・
だから、これからこの本を読まれようとする読者へ推奨する言葉が、どうしても見つからないのである・・
大江文学の自伝的な要素を含んだ「フィクション」であるこの本は、どうやら著者の自己満足の域に終ってしまって遂に「普遍性」をつかみ得なかったように思えてならない・・・。
面白い、でもこの先は我々の思索に委ねているのか?
★★★★☆
30年前の筆者も友人たちも情熱を持ち、まだ先があるものとして仕事に対し意欲的に
臨んでいたその当時に、チャレンジした映画作成。
中世の反乱を描いたコールハースの反乱とそれにまつわる夫人とジプシーの運命的な
寓話を、かたや四国の森の中で起きた村の一揆と女性達の芝居に対してテーマの共通性を
見出し、ひとつの作品に仕上げていこうとする軸がひとつ。
かたやポーの詩と主演予定であるサクラの幼少の時の体験からくるロリータ的性的錯綜の
傷という軸が交差していく。
複数の要素を織り成しながらくみ上げていく作品を読むには知的好奇心と読書の喜びを感じる。
だが、これまた性的錯綜の事件の上に頓挫してしまった映画制作を70歳を過ぎ、ひとりは
既に病気をしている彼らが、30年前とは異なる出口に向かっているという気持ちで今度こそ
実現していこうとする。
そしてその途中で唐突に終了してしまうのだ、これが。
この先のことは我々でどうとでも考えるようにとの示唆であろうか。
それでもいいけれども、やはりもう少し続けて欲しかった。
ここで終わる意味を考えてしまう、作品である。