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逆立ち日本論 (新潮選書)

価格: ¥1,260
カテゴリ: 単行本
ブランド: 新潮社
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対談本としては上出来 ★★★☆☆
あくまで対談本です。
そう割り切った上で、読むと良いでしょう。
読み物としては楽しい。
ひとつ興味深い点があって、それは、養老と内田の、「発言に対する責任感」というか、「間合い」というか、「ゲシュタルト領域」というか、そういうのの違いですね。
その点で、この本においては、内田の「現代っ子」っぽさが露見していて面白い。
どういうことかというと、内田の発言には、基本的にある意味で、「批判されそうな適当すぎることは言わない」という「ナイーブな態度」が見え隠れするのです。
それに対し、養老の発言には、その手のナイーブさがほとんど感じられない。
どちらが正しい態度だ、と言うつもりはありませんよ。
しかし、この養老のKYさから、考えさせられることはいくつかある。
それはたとえば、「これぐらい堂々と専門外のことにコミットしても大丈夫なんだ」ということだけではなく、「でも、こういう態度って、使いようによっては(使う人によっては)、知識やルールをぐちゃぐちゃにしてしまうだろうな」ということなどです。
(私がおすすめする方)重たくない知的刺激を望んでいる方 ★★★★★
(1)読むべき価値のある章 すべて
(2)読むべき価値のない章 なし

感想:養老氏にしては常識に近い発言が多いので、読みやすいです。ただ、内田氏のユダヤ人論の作り方の基本、鎖国の肯定的評価、落語「蒟蒻問答」と禅、「振り込め詐欺」がある社会は悪い社会か?等、表題にとらわれず森羅万象をお二人の独特の切り方で対談しておられます。無論、知的刺激には十分なります。
エピソードとしては、「養老氏のところにヤクザが来たとき、片腕の標本をポンと机の上に置くと去って行った(自分の想定外の事象にはヤクザは対応できない)」が面白かったです。
本当に理解できますか? ★★★☆☆
私は養老先生のファンで、数多くの著作を読んでいますが本書の中での
先生の発言は、凡てではありませんが他の著作での氏の意見と比べて
理解できないモノが多かった。
特にユダヤ人に関する箇所などは実感を伴って理解する事は到底出来なかったし、
何となく・・・という理解でしか読み終える事ができなかった。
本書の内容を本当に理解できる人はどれだけいるのだろうか。
当レビューの題を、反感を持って眺める方もいるのかもしれませんが、
余程の知識・知性・体験がある方は別として、
理解したと簡単に思う癖は止めた方がいいのではと僭越ながらに思います。
良く売れた先生の著作、例えば【バカの壁】は
相当低いところまで降りてきて頂いているんだなと感じました。
安易な対談本を排す ★★☆☆☆
 養老孟司氏は正直なのでこの対談を「“高級”漫才みたいなもんです」と自虐的に評しているが、果たしてどれほど「高級」であるかはご自身の“ ”の付け方を見ても想像できる。対談の中で彼ら自身「おばさん」っぽいと認めていた。そのレベルであろう。(この言い方「おばさん」から怒られそう ごめんなさい! おばさん…笑)
 「新潮選書」の蘊蓄(うんちく)を語った言葉によれば、新書よりもたっぷりとした読みごたえをもたせ、ひとつのテーマの全体像を提示することを狙いとした、ということが書いてある。そうだろう。読者もそう思っている。ここにこの種の「おばさん漫才的対談本」を入れることに編集部内で異論がなかったのだろうか?
 いや、内容はそこそこ面白い。これが新書で、あるいは安物の単行本で出れば文句はなかった。「選書」という看板と値段、それと内容とのバランスに納得がいかないのだ。
 「新潮選書」のためにこの本が売れないことを祈る。新潮社がまた同じ手で「選書」の品格を落としていく道を歩むことがないように。
編集無しの対談を聞いてみたいですね ★★★★☆
養老先生が内田さんの「私家版 ユダヤ文化論」(本書の出版後に小林秀雄賞)を読んで興味を持たれて対談が行なわれたようだ。内田さんのご自身のブログでこの対談では養老先生の発言の多くの部分(おそらくは非常に本質的な部分)は削除されていると書かれていたと思う。しかしながら全体を通じて感じるのは、やはり養老先生のものの見方(「逆さメガネ」に書かれている態度、本書では「対偶」的な見方か?)を内田さんもお持ちであり、お互いの対談を通して物事の本質の極め方を示されているように思った。
「ユダヤ人」とは何かという問いに、「有責性」(ユダヤ人は非ユダヤ人よりも世界の不幸について多くの責任を引き受けなければならない。だからこそ神に選ばれた民だという有責性)が一つの答えの端緒となると言う。そして日本人だからこそ、ユダヤ人論をある種客観的に論じられるのだとも。到底お二人の「知」に付いて行く事すら出来ないが、実はこの「何々人」とは何かという問いが実は「唯脳論」的な問いである事が分かる。
そして話は国内問題やアウシュビッツ問題、蒟蒻問答、小泉政治、日本語論など多岐にわたって展開する。地方分権の文脈で養老先生が北海道独立論をぶち上げたり、「きめないでおこう」という態度の必要性、あるいは「オープンクエスチョン(開かれた問題)」の必然性を話されていて、まさになるほどと思ってしまう。只者ではないお二人の編集無しの対談を聞いてみたいものです。