日本書紀の成立過程=創作意図が明確に整理されている
★★★★☆
著者の「<聖徳太子>の誕生」は先に読んでいて、聖徳太子架空論は自分の中で「常識」になっていたので、そこからどのように議論が発展しているのかに関心を持って本書を手に取りました。
聖徳太子の実在性には裏付けがないことを再確認しながら、今度は日本書紀の成立過程に話が及びます。具体的には、藤原不比等が権力を確実なものとするために、藤原系の天皇を次々に即位させるべく奔走し、それらの家系図と相似形の神話を作成し、さらに宗教的権威の保証として天皇の神格化=天孫降臨伝説を創作するに及んだ、というものです。ついでに言うと、実際の大王であり、万世一系神話の邪魔になる蘇我氏の業績を矮小化するために、聖徳太子を創作してそこに業績を貼り付けた、というものです。
他の評者の方も書かれている通り、ところどころに学者らしからぬ毒舌が散見され、ある種のおとなげなさも感じますが(笑)、論証の過程そのものはそれなりに明快で筋道立っており、日本書紀を藤原不比等が創作した背景や理由がすっきりと整理されています。
「<聖徳太子>の誕生」が刊行されたのが1999年、それに先行する同主旨の論文は1996年に出ているものの、今日に至るまで学問的な反論は皆無とのことです。その意味では、相応の学問的業績がある著者ですが、こうした仕事がいまひとつ表立って評価されないところに、日本の歴史学界の保守性があるのかな、などと思ってしまいます。最近読んだ本の中で中沢新一は、「日本のなかでは考古学が、茶道や華道のような家元制度の芸とよく似た発展をしてるなと思いますね」と語っていましたが、同じような事を指しているのかもしれません。
日本のそして天皇の始まりを改めて問う書
★★★★★
教科書で、聖徳太子という名称が厩戸皇子に変わってきているということを聞いたことがあったが、その背景となる考え方のひとつが、今回、著者が主張する「聖徳太子とは藤原不比等が藤原氏の権力に正当性を与えるために作った虚像」というもの。
確かに、子供の頃に習った日本の歴史を振り返っても、卑弥呼の時代からしばらく空白が続いた後、妙に明瞭な冠位十二階、十七条憲法、「日出処の天子」の隋書などの聖徳太子の時代を迎えていて、これが事実上の日本の歴史のはじまりとなっているが、そのもととなっているのが日本書紀ならば、その書物の意図を吟味する必要はあるだろう。
権力と権威の分化して、天皇に権威のみを持たせる、というは日本人の知恵という理解でいたが、これも著者の主張によれば藤原不比等のはかりごとということになる。
本書の学術的な評価はわからないが、日本のそして天皇の始まりを改めて考えるきっかけとなる書となった。
聖徳太子は存在せず,天孫降臨の日本神話は藤原不比人が作った
★★★★★
聖徳太子は実在せず,創作されたもの。推古天皇や用明天皇は実は天皇(大王)ではなかった。推古天皇の頃は蘇我馬子の時代で蘇我王朝があったこと。天孫降臨の日本神話は実は藤原不比人が創作し,日本書紀にまとめたこと等,驚きの連続でした。蘇我馬子が絶大な力を持っていたこと,天皇の呼び名が日本書紀以降であること,日本書紀はいろいろなところに創作があること,藤原不比人と持統天皇が力を合わせて天皇家の血筋を守ろうとしたこと,藤原不比人が極めて有能な政治家であったこと等はおぼろげながら知っていましたが,それらの事実がすべてうまく説明されており、全体的にかなり実証的なのでたいへん面白かったです。日本の古代史に興味のある方はぜひ一読をお勧めします。
驚きの書
★★★★★
「聖徳太子はいなかった」という事をうたった本はいくつか目にした事はありましたが、「そんな馬鹿な話があるものか」とはなから相手にもしてなかったのに、この本はNHKブックスから出版されているし大学の教授が書いているものだから手にして読んでみました。
そうすると古代史に関心はあるものの全くのずぶの素人である私には「驚きの書」でした。
素人と言うものは恐ろしいもので生半可な知識と思い込みで信じていたものの土台からすべてを判断してしまうものです。しかしこの本は「日本書紀」を批判的に読み解くことで私の何気なく信じていた土台そのものを揺るがせてくれるものでした。
素人ですからその真偽は私には判断する材料を持ち合わせてはいません。しかしこういった角度から古代史を見つめなおすこともある意味必要なことだと感じました。
日本の天皇制が中国の皇帝に擬えて出発したものの、中国のように専制君主であったことは日本の歴史上一度も無かったということは全くそのとおりだったと思います。
古代の日本の姿が今まで以上によく見えてきたような気がします。
問題提起に満ちた刺激的な本(ただし毒薬かも…)
★★★★☆
本書は、大きく2部構成からなっています。
前半は「聖徳太子はいなかった」という著者持論の再説、および、「聖徳太子はいなかった」時代のあらましの再構成。
後半にはいってようやく書名にある「天孫降臨」を、皇位継承問題にからめて論じます。
「聖徳太子をつくった」のも「天孫降臨」を実現したのも、いずれも藤原不比等が画策し実現したというのが本書の骨子です。全編を通じて飛ぶ鳥を落とす勢いで論が進みますが、かなり古代史に慣れ親しんでいないと、なかなか追いついてゆくのが大変です。
(じっさい苦労しました)
これだけ強い主張をもち、また周囲の学者に対し苛立ちを交えて攻撃する本は珍しいと思われます。著者の構想力は見上げたものだと思いますが、いっぽう、唯我独尊の嫌いがあると感じます。
(正直、読後感はあまり良くなかったです)
古代史に関し、近年読んだ本と読み比べての感想(というか疑問も含めて)を書き添えます。
前半のテーマについてですが、「聖徳太子はいなかった」そして「聖徳太子をつくった」のは藤原不比等だったとすると、法隆寺が再建されたことを著者はどう説明するのか、気になる。
以前読んだ『法隆寺の謎を解く』(武澤秀一、ちくま新書)によれば、太子一族が全滅した後、廐戸信仰(のちの言葉でいえば聖徳太子信仰)がなければ、氏寺であった法隆寺が再建されることはなかったはず(だと思う)。大山誠一氏によれば、廐戸信仰などというものは全くなかったというわけです。そうなると、一族が滅亡した後、誰が法隆寺を再建したのか、著者の考えを聞きたいと思った。
後半のテーマに関してですが、大山氏はアマテラスの後にタカミムスヒが登場したとする。タカミムスヒも不比等がつくったかのような書きっぷり。これも『アマテラスの誕生』(溝口睦子、岩波新書)と真逆の印象だった。どちらかに軍配を上げる能力はないが、著者は神話や宗教についてもう少し慎重な判断をしてもいいのではないか。
(失礼!)
読後、以上の2点から、ひょっとすると大山説は瓦解するのではないかと思った次第。いろいろなことを考えさせてくれる本でした。その意味では感謝します。問題提起に満ちた刺激的な本であることには間違いありません。
(ただし毒薬かも…)