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法の哲学〈1〉 (中公クラシックス)

価格: ¥1,575
カテゴリ: 新書
ブランド: 中央公論新社
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「法哲」はやっぱり必読書 ★★★★★
 この本を読もうと思ってトライを始めたのは10年ほど前でした。動機は、文字通り法の哲学を知りたかったからです。だが、ヘーゲル用語が難解であること、なかんずくヘーゲルの考え方自体の理解が足りなかったために、しばらくはその目的の殆どは達成できませんでした。そこで『精神の現象学』を読み、一応の要点を理解した後に、再度読み直してみると、やはりこの本は、今から見れば批判されることが妥当な原理的部分はあるとしても、法を理解するために欠かせない必読書であると思えます。

 基本的にヘーゲルは、人間というものは、個人的に誕生して以来、おのれの意識が経験を積むことによって知識も考え方も深まっていって、ヘーゲルの言うところの自由を我がものにしていく可能性のある存在であると考えているのですが、社会や国家についても大雑把に言えばほぼ同様であると捉えています。その考え方の道筋は、ヘーゲルの弁証法という思考方法によって辿られているということになるのです。
『法の哲学』は、法律の哲学でもあるのですが、その内容は社会哲学です。法律の根拠をなすものは社会の正義(法)であり、その正義は、ヘーゲルの言う「自由」に由来するということになる。だから、この「ヘーゲルの言う自由」というものの理解が要諦をなす事になるのです。このことは、社会や国家を考察する上に置いて、きわめて本質的で重要なことであると思います。

 本文からいくつか引用してみると、「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」(序文)、「法の体系は、実現された自由の王国である」(序論)、「善は実現された自由であり、世界の絶対的な究極目的である」(§129)、「家族は愛をおのれの規定としている」(§158)、「(市民社会は)全面的依存性の体系を設立する。-----この体系はさしあたり外面的国家とみなすことができる」(§183)、「国家は倫理的理念の現実性である」(§257)、などとなります。

 しかし、国家から歴史を取り扱っている部分になると、哲学的原理と言うよりは、現状追認とも思えるようところが出てきます。例えば、ヘーゲルは立憲君主制を支持しているのですが、その根拠は前述の「自由」から導かれているようには思えず、それどころか、「(君主の)生得権と世襲制は、理念上の根拠として、正当性の根拠をなすものである」(§281)などとさえ述べています。なぜヘーゲルはそのように述べるのかについての理由は哲学者の仕事であるのでしょう。小生のような一般読者は、哲学書は物事を原理から考えるためのツールとして利用するものだと、軽く考える方が良いのだと思います。
自由の哲学 ★★★★★
 ヘーゲル最後の著書である。浩瀚な二冊本の著者クローナーはドイツ観念論の歴史をカントの純粋理性批判から説き起こし、この書が出版された1821年をもってその歴史を閉じている。こうしてみると、ドイツ観念論の歴史はカントとその最良の弟子ヘーゲルによって担われたといってもよい。カントが素材を提供し、ヘーゲルがそれに形を与えたのである。その歳月は40年であった。
 法の哲学は人格・所有、道徳、共同体という政治社会全般を含めた自由の哲学である。法の世界は自由の精神である。自由がドイツ観念論の追求する理念であった。だが、この自由はその後の社会主義によって窒息させられてしまった。そして自由を享受するようになって20年にも満たない。
 こうした世界にあって、読み継がれて来たのがこのヘーゲルの書である。ヘーゲルにとっては論理学、エンチュクロペディーを仕上げて最後の著書となったのである。これ以後あらたな著作の試みはなされていない。
 ヘーゲル50歳、まさに円熟期の作品である。従って、その内容も極度に困難を極める。文章も装飾の多い、自由奔放というか、奇をてらった形で、ドイツ語、日本語とも判読不能な個所が多い。そのためか、さまざまな人が講義録を編集し、日本語の翻訳も第一回講義からさまざまな講義録が翻訳されている。
 その中にあって、この翻訳はやはり優れている。文章をぶつぶつ切って訳しているが、いたしかたない。これに次ぐのが高峰訳であろう。
広汎な議論が魅力の社会哲学 ★★★★★
人間の意志の規定から説き起こし、法律、道徳を論じ、倫理(習俗規範・共同体の精神)という章で、家族・市民社会・国家を論じる。ほぼ人間社会の全般を網羅する社会哲学であり、法=正義についての哲学だ。第1章は法律哲学として「抽象的な法」を扱う地味だが示唆に富んだ重要な章。各章に瞠目すべき見解が多いが、最終章「倫理」のなかの市民社会論が世評が最も高い。資本主義社会の勃興期に、早くもその本質へと迫り、その重大な限界を指摘する筆致は、鋭くもドラマティック。ハーバーマスが近代の問題を最初に意識したのはヘーゲルだ、と言っているのは、まさにこの「市民社会」の分析を指してのことである。しかし、本書のバックボーンはむしろ第2章「道徳」にあり、「良心」が「悪」へと転ずる可能性を論じることで単独者としての個人の限界が浮き彫りにされる。結果「倫理」の章へ転ずるが、この転換は、哲学の立場上の大転換とも思え、その妥当性を巡ってもっと議論されてよいと思う。しかし、先見的な多くの議論に反して最終の「国家」の部分は、反動的な色彩が強く、読者をつまずかせる。仮に著者の歴史的な時代を十分勘案したとしても、今日ではついていけない議論が多い、と言われる。私個人は、反動云々より、「回答」の出し方に少し甘い点があると思う。具体的には、「君主権」であって「君主」を一人間としてみた場合の限界に対するヘッジがまるで描かれていない。ヘーゲルにすれば君臨すれども統治せず、の見解が背景にあるのかも知れない。また、「エンチクロペディー」では「iの点を入れること」が君主の仕事で、最後の形式を与えて客観性を持たすことを主張していることからも、巨大な権力を君主に委ねる気は無いのだと思うが、やはり「回答」としては限界がある。とはいえ、民主主義しか信じて疑えなくなっている我々の政治意識は或る意味貧困で、ヘーゲルの議論に白紙で耳を傾けることも悪くないかもしれない。それに、「国家」の重要性をしらばくれていては、社会も日常生活も単独者(個人)も論じることはできないのだから、「国家」まで真正面に据えて論じた本書は逃げも隠れもしない「社会哲学」。ごつい文章の中、通奏低音のように響くリリシズムが魅力だ。