軽く読めますが、軽いままです
★★★☆☆
山崎さんの文章は読みやすくて大好きです。それで期待をもって読みましたが、がっかりしました。
読みやすいのは確かでしょう。ただ、内容があまりに軽すぎて、もっと読みたいと思うような部分になると、残念なことに、それっきり話題が途切れてしまいます。そしてそれが全編にわたって続きます。
もちろん、視点はとても面白いです。おおくは西洋文明を例にとりながら、日本の教育というものを比較的な視点からとらえなおしています。
ふだん、日本の教育はおかしいんじゃないか、と思うことがあるので、こうして他国と比較する横の軸がくわえられると、大変参考になります。それから歴史的な視点もあって、縦の軸から今のあり方を考え直すこともできました。だから、そんな考察をもっと深くしておいて欲しかったな、と思うことしきりです。
欠点は、この本が小中学校教育をおもな対象としていることだろうと思います。
高校以降の「受験」のあり方も、ヒントくらいは書いて欲しかったです。それに、一番問題なのは大学教育だと思いますが、それについては完全に視野に入っていません。個人的には、就職活動の際、大学で何を学んだかを問わずに採用していく企業が問題じゃないかと思っていますが、あまり確信はありません。だから、大学教育がどうあったらいいのか、山崎さんの意見を聞きたかったです。「文明としての教育」というタイトルからしても、とりあえずは教育すべてを視野に入れておくべきじゃなかったでしょうか。
現在の塾や予備校、家庭教師などのあり方について触れていないのも、残念に思いました。そういうものが、一般人にとっていちばん身近な「教育」なのですから、それらを位置づけないままにすると、せっかく易しい言葉で語っている意義が薄れてしまうように思います。
山崎さんの他の本とくらべてしまったからかも知れませんが、わたしの評価はだいぶ低くなりました。
教員免許は「国家」が授与するもの?
★★☆☆☆
学校での「君が代」斉唱について著者の山崎氏は「しかしながら、その教師が国家から免許を受け、俸給を受けている義務教育の教師であり、その資格を根拠に生徒を指導している以上、少なくとも校内で国法を尊重するふりをするのは当然の義務だと思います。」(p.170)と書いています。
この一文には、ふたつ問題があります。ひとつは現行の教員免許状は国家から「直接」受けているものではないことです。免許は地方自治体の教育委員会に申請して授与されるものです。このような、ごく基本的なことも正確に認識なさっていない方が、中央教育審議会の会長職につかれているのですから、あきれてしまいます。ご自身は大学教授という教育者の立場にあっても、大学に在学中に小中高校の教員免許状を自ら申請して取得したことがないから、こんな乱暴な陳述になったのでしょう。
ふたつめは、「国法を尊重するふりをするのは当然」という部分です。ということは、日本国が国法によって戦争を始めたとき、教師は「ふりをして」教え子を戦場に送って当然というのでしょうか。国法であっても戦争という行為が国家の犯罪であると考えるならば、国法を無視し良心に従って真実を教え子に伝えていくのが当然ではありませんか。
「義務としての教育」と「サービスとしての教育」
★★★★☆
世界の教育史を見ながら、日本の教育のありかたを提言しています。
中盤の教育史はやや間延びを感じ、読みどころは終盤にあります。
簡潔に言えば、「義務としての教育」と「サービスとしての教育」を分けて考えようと言うことです。
義務としての教育は、「読み書きそろばん」と「遵法」です。
これは国家からの強制であり、無知は許されないものだといいます。
一方のサービスとしての教育は、独立した個人として生きるための教育です。
極端に言えば、「読み書きそろばん」以外は、みなサービスとしての教育だということです。
道徳、倫理も、個人によって適応が違い、サービスに属するという考えです。
本書を読んで、最低限のことを厳しくというのが著者の方針であろうと思いました。
基礎さえ押さえていれば、後は個人の好みにまかせるべきだということです。
今の教育は、何もかもを求めすぎているということなのでしょう。
この通りに行うべきかかどうかは別として、提言としては、傾聴に値すると思いました。
読者が自身の意見をよくふまえた上で読むべき教育哲学書
★★★☆☆
各時代における歴史的な背景をもとに教育を分析し、それに基づいて現代の教育を考察した書。『公的な教育で優先すべきものは何か』が本書のテーマ。前半は古代から近代の教育方法の歴史を解説し、後半は著者が推奨する教育の概念を紹介。平易な言葉で広い読者層が対象。
著者の教育に対する記憶は、戦時中に命がけで学校に通った壮絶な経験からはじまる。なぜそうまでして教育を重視したかを明確に答えられる者はいなかったであろうが、歯を食いしばって教育を続けたことが、現在の日本を造る原動力になっている。この想いが著者のモチベーションとなっている。
前半部分は歴史的検証で、勉強になった。しかし、後半部分は慎重に検証しながら読み進める必要がある。本書は科学的な視点に立った考察はほとんどなく、引用文献も提示されていない。本著者の肩書きは劇作家、評論家であり、大学での専門は哲学であるから、これは許容できるが、あくまでも一評論家の哲学的視点に立った主観的な意見として認識すべきである。このような場合、趣旨の一貫性や整合性が重要だが、著者の意見には賛成できる点もある反面、できない点も多い。全体的に見ると、それぞれの提案に整合性がない部分が多々あると思う。具体的には、日本の歴史教育は軽視していながら国語教育を重視している点。日本の国力が国民のアイデンティティーによって支えられているのであれば、日本の現状のみを教育するのではなく、日本固有の風土や文化の由来を教育べきと思う。多くの学問は物事の由来の探究に基づいており、現に本著者も教育の歴史的由来を根拠に教育論を述べている。もし、日本固有の文化教育を軽視するならば、国語教育を行うよりも今後数年間かけて英語教育に移行し、母国語を英語にした方があらゆる意味で合理的になるはずである。したがって日本文化の由来と国語教育は別次元で語るには無理があると思う。また、週3日程度の登校とし、実社会での現場教育を増やせとしているが、これも無理がある。職業や価値観の多様性や科学技術の進歩から、職人としての技術以前に、多くの基本教育が優先されるべきである。例えば、文系の社会学者でも統計学(数学)に疎ければ話にならないし、物理学者でも英語力がなければ話にならない。したがって、初等教育では専門職にステップアップするための多くの『言語』として用いる教科の指導を軽視してはいけないと思う。脳科学的に見ても、多くの情報を丸暗記する知識記憶は初等教育で重要である。これを軽視した結果がゆとり教育であるが、これは従来のつめこみ教育と比較して何の優位性もない。学校という集団形成の意義を軽視して、部活などは学校と切り離したサービスに分割すべきという意見が正当化されるのであれば、わざわざ登校せずに家でインターネットのみで授業を行うだけでよいことになる。初等教育については、本書のような哲学的視点よりも、脳の発達過程や心理学に基づく考察が必要と思う。反論ばかり書いたが、教員が国旗掲揚に反対すべきではないとする部分など、賛同できる意見も多い。
あくまでも哲学に基づいた主観的な意見として読み、読者自身が自らの意見を持った上で読むべき書である。読みやすい反面、目から鱗が取れるような情報は少なく、星3つもやや甘めの採点。
山崎正和氏による人類史を踏まえた普遍的教育論の提案!!
★★★★☆
教育者に限らず、また子を持つ親に限らず、多くの人が読んでもらいたい好著だ。本書は、小学六年の山崎少年が第二次大戦で中国奉天から引き揚げてくるところから始まる。ここには暗黙の非戦の思考が伺える。
著者の山崎正和氏は、現在中央教育審議会の会長を務められている方である。ともすれば、その肩書きを聞いただけで、政府よりの保守的な人物→読みたくない、となる人もいるだろう。しかし著者山崎正和氏は、そんな小さな発想をする人物ではない。
本書の中にこのような下りがある。
「国を愛する教育とはどのようなものであるべきか・・・大和文化には優れた特徴もあり、興味深い文化であることはたしかですが、必ずしも昔から全国、東北や九州、あるいは沖縄にまで広がっていたものではありません。さらにいえば、日本という国には、アイヌの人たちの文化もあれば、六十万人といわれる在日韓国・朝鮮の人たちの文化もあり、中国文化の影響の色濃い沖縄の文化もあって、きわめて多様な文化が折り重なっているのです。」(164ー165頁)
著者はそのような日本社会の奥にある多様性を認めた上で、「二〇〇六(平成十八)年十二月に改定された『教育基本法』」がことさら「愛国心」を強調したことに対し、次のような疑問を呈している。
「仮に『伝統と文化』が大和文化を指すとすれば、それを愛すること自体に問題はないにしても、大和文化を愛することと、そして現代の『我が国』を愛することの二つを論理的に結びつけることは大きな問題があるからです。・・・愛国心とは、何より現代の日本社会、すでに多様な要素を含んだ文化にたいして向けられるものでなければならないでしょう」(166頁)
著者山崎正和氏の深い見識(歴史観、文明史観)によって書かれた非常にバランスの取れた秀逸の教育論だ。言葉が洗練されていてとても読みやすい。この本を切っ掛けに、今後の「日本の教育をどのようにするのか?!」という大議論が日本中で巻き起ることを期待したい。