一時の激情にかられただけの理不尽な人殺しが今や珍しくなくなった時代に私たちは生きています。そこには想像力の欠如が大きく関与しているとしか私には思えません。社会とは人間同士の細かな網の目です。ですから自分が生きて為す何かが、自分以外の誰かの人生に大なり小なり必ず影響を与えることになります。フリッツがかつて想像することができなかったのは、そうした網の目を断ち切ることの重大さであり、またこの網の目の中にこそ人間の心の温もりがひっそりと隠れているという事実です。
この5巻目では、ヨハンの殺人を模倣した事件が発生しますが、その犯人に「感情がある」(210頁)ことをルンゲ捜査官は見抜きます。その感情が残虐な殺人をほんの一瞬だけですが躊躇させるというのです。
フリッツといい、この模倣犯といい、想像する感情があればこそ「踏みとどまる」ことが出来るという当たり前のことをこれは語ろうとしています。そして一方で、私たち読者が対峙させられるのは一切の感情を持たない究極の悪であるということも、また鮮明に浮かび上がってくるのです。
なお、9年間にわたって12人の女性を殺した連続殺人鬼として本書の冒頭に登場する人物はペーター・ユルゲンスという名ですが、これは1931年にドイツで処刑された実在の連続殺人鬼ペーター・キュルテンをもじったものでしょう。ペーター・キュルテンはこのペーター・ユルゲンス同様、殺人に際して性的興奮を感じていたという男です。
興味をもった方は手塚治虫の作品に「ペーター・キュルテン」という短編があるので、手にとってみてはいかがでしょうか。
Dr.テンマやランゲ警部、エヴァ、殺し屋のロベルトなど、彼らは本当によく描かれている。彼らがどんな声で喋り、今目の前に居たらどれほどの迫力を持っているか、ありありと思い浮かべられる。彼らは人間である。それに対して、ヨハンとアンナの双子の兄妹。彼らはほとんど毎話登場し、物語の重要な鍵を握り、非常に美しい姿をしているにもかかわらず、その存在感、現実感は希薄で、もしも実在したらどんな姿かたち、声であるのか、まったく想像できない。「こんなやつらはいない」という感じがする。ヨハンだけではなく、アンナでさえそうである。彼らはどこかイデアの住人、イメージの外側にするりと逃げてしまう流体、そんな感じがするのである。そして彼らの役どころがまさにそうであるので、浦沢氏の絵は物語と見事に一致していると言わざるを得ない。
考えてみれば、僕が神に祈るとき、神の姿を思い描くことはない。祈るとき、では僕はなにを思い浮かべているのだろう?考えれば考えるほど、神は僕から逃げる。視界の限界を見ようと必死で眼球を動かしても、視界の外側を見極められないもどかしさ。ヨハンはヨハネの黙示録のヨハネでもある。黙示録は幻に満ちているが、どれも正確にイメージすることは難しい。
開かれた物語、開かれた漫画。母による選別というラストシーンは、残酷な描写を使わずに鳥肌を立てさせる。実に後味の悪い名作である。