第6巻までこの物語が繰り返し描いてきたのは、家族を喪失した人々です。フォルトナー夫妻を殺した後に自らの家族を失う恐怖を味わう元刑事フリッツ。妻と娘に去られたルンゲ捜査官。傭兵隊長に養われているミャンマーの少女も孤児でした。
そして第7巻ではリヒャルトがやはり妻と娘との失われた絆を取り戻そうともがいています。
こうした<家族の喪失>の反復の底には、人間の依って立つ基盤が「家族」にあるというささやかな信念が横たわっているように思えてなりません。
そして第7巻も終わりにさしかかる頃、ようやくDr.テンマが読者の前に再び姿を現します。そして初めて白日の下でヨハンの顔を見るのです。私たち読者は既に第6巻の後半でかなりの時間にわたってヨハンの白昼の行動を目の当たりにしているのですが、Dr.テンマは1巻遅れてヨハンの輪郭を目にするというのです。これはどういうことを意味しているのでしょうか。
こうした長大な物語を、私たちは常にDr.テンマの目を通して見るわけではないということです。その分、私たちはテンマの感情から時に放たれることになります。ヨハンにもてあそばれていく「脇役」陣の目や心に自らを重ねることができるのです。
同時に、ヨハンと初対面の人々に幾度となく視点を重ねることによって私たちは、窺い知る事ができないヨハンの心の闇を常に無防備な形で味わわされることにもなります。ヨハンは温和で整った美しい相貌を武器に人々の無垢な心につけ入る巧妙さを持っています。だからこそ、その美貌の裏にある、落差の大きい醜怪さに慄然とさせられることになります。それを繰り返し繰り返し味わうというのは、底冷えのする恐怖といえるでしょう。
ターゲットの年齢層は高めだが、万人受けするはず。はっきり言おう。これは傑作だ。