棒切れで語らう二人の天才剣士。
★★★★★
武蔵が求めていたもの、佐々木小次郎、そしてそれはかつての自分。自然の中で遊ぶ子供。理の中にいる自分。そういえばイチローが安打数の世界記録を作った時、小学校の頃の打撃フォームが理想的なフォームだったと語っていたっけ。
一方、植田によって吉岡一門はヤクザ集団に成り下がった。吉岡の連中は一門の剣技に対する自信と共に武士の誇りを失った。小次郎を用心棒に雇うことに失敗し、武蔵に鉄砲を向ける植田。似合わぬと一笑に付する武蔵。
遂に武蔵、伝七郎の前に立つ。日々修練に明け暮れ、型にはまった剣を振るう伝七郎。それは人を斬るためのものではなく、剣術のための剣術でしかない。そういえばイチローは「ピッチングマシーンの球は打たない」って言ってたっけ。それは「実戦には活きない練習のための練習」でしかないって。
一方、武蔵は伝七郎の剣など構わず伝七郎をどう斬るかだけを考えていた。武蔵は刀を抜き忘れるほどに自然と調和する。
努力の次元と理と一体の努力の次元
★★★★★
努力という点では、吉岡伝七郎は努力家に違いない。武蔵や小次郎が到達した次元というのは「剣」の追求から、道にいたる道程であり。その道程の先には「理」が存在するのは「武道」が「道」の本質的な追求と同じだからであるし、斬りあいという修羅の中で、到達するところは。僧が悟りを開く道程と本質的に変わらない。道と名がつくのは、その為であり。理と一体の自己に出会ったという描写はなるほどと思っていました。これは、漫画家も道であるという一つの示唆でもありますね。 面白いものです。吉川栄治は結局は人間を洞察していたと思います。それは吉川が文筆という「道」を極めてゆく自身の発露に他ならない。武蔵と又八というコントラストは、武蔵の己心の又八であるに違いない。本来、理に始まったものが、やがてエゴでつきすすみ、理に到達し一切を包含してゆく。道であり道程である。深い。
伝七郎
★★★★☆
高みに届かない者の悲哀を強く感じた一冊でした。
天賦の才,努力,運,場所,出会い,経験,血筋,時代。吉岡伝七郎にはいったい何が足りないのでしょうか。物語においては,いろいろなキャラクターが出てきますが,たいていは,努力を怠るもしくは努力をする才能がないために,這い上がれない者が描かれます。本位田又八はその類でしょう。
しかし,吉岡伝七郎は非常に努力を重ねています。才や経験,出会い等にもそれなりに恵まれています。しかし,その力が,絶対的に武蔵や兄清十郎に届きません。
今までの話でも力の差が何度も描かれ,悲哀を感じていましたが,今回,24巻最終話の「コウキル」でその隔絶とした差を絶望的に,心に刻み込まれました。伝七郎という存在から何を読み取り,感じればいいのでしょうか?>井上雄彦さん
伝は死んでいた
★★★★☆
伝七郎との決闘は始まって直ぐ、武蔵の一撃で終わっていたはずです。でも武蔵は刀を抜くのを忘れていた。とんでもない命拾いです。しかし状況は変わるはずもなく・・・。まさにこれから始まる吉岡一問との戦い。楽しみです。正直リアルはいいからこっちをもっと書いてくれいっ!
水墨画のような芸術作品
★★★★★
宮本武蔵と佐々木小次郎の熱い生き様を描いた最高に芸術的な作品。 第24巻
これほど心の描写がまるで絵画のように風流に綴られた作品を私は知らない。
このマンガの画集や「墨」で描かれた作品などが発売されているのがよくよく
納得できる。
これはただのマンガではない。流れていく映像であり、立ち止まっていつまでも
眺めていたい画(え)である。
24巻は、武蔵が「自然」と「自らの肉体」の一体、同一化を思い出す様子が描かれ
ている。幼い頃に見につけていたが、いつのまにか亡くしていた大事なもの。偶然
小次郎と出会い、小次郎の中に自然との一体感、「理」と表現していたが、その「理」
を見出す。
その「理」を失わせていたものは「自分」であったことに気付くまでの心理描写の
描画は特筆ものである。
相変わらず非常に時間の流れがゆったりしているが、ストーリー的には少ししか
時間軸が動いていなくても、その分「深さ」があり、非常に楽しめる作品である。