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バガボンド(25)(モーニングKC)

価格: ¥550
カテゴリ: コミック
ブランド: 講談社
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伝七郎の美しさ ★★★★★
努力し続け、自負もある伝七郎。それでも武蔵との実力の差を感じる。
「その先」を捨て、前へ進む。吉岡の名を守るために。
伝七郎は本当にいい顔をしています。
二つの再会 ★★★★★
バガボンド25巻。この巻では武蔵にとっての二つの再会が描かれている。

1つは伝七郎との再会。
伝七郎が思い知るのはわずか一年、されど一年という時間の残酷さだ。武蔵と伝七郎、2人にとってこの一年は同じ一年でも、
侍として全く重みの違うものだったのである。
達人と達人が合間見えると、戦う前に両者の間で勝負は決まるというのをよく聞く。
剣を交えずとも、お互いがお互いの力量を測れる眼力を持っているからだ。伝七郎も心の奥底では気づいている。自分は戦わずし
て負けているということを。
ここで彼に突きつけられているのは倫理的課題である。つまり自分の敗北を「認めること」。自分の死を確信しながらも相手と戦
うということである。
彼は一度はそれを否認して虚勢を張るが、それでは武蔵に届かない。けれども彼はその後に、あることを契機に自分の敗北を認め、
武蔵に敬意を表して挑みかかる。武蔵もその贈られた敬意に応える形ではじめて、真の意味で伝七郎と戦うことを決意するのだった。

もう1つの再会の相手、それは又八。
又八に我々が感じるのは過度な「人間くささ」だ。彼はまさに我々の映し鏡なのである。名を上げたいのだけれど、特
別な才能なんてないし、ここぞというところで及び腰になるそのどうしょうもなさ。そして何よりも私が又八に共感するのは、あ
からさまな彼の「嫉妬心」。
私たちは自分にないものを欲しがる卑しい生き物だ。そしてそれが手に入るのものあればいいものの、それが手に入らないもの
―例えば才能―であれば、その感情は薄汚い嫉妬心へと変貌する。

この一年、武蔵の活躍を影ながら見てきた又八の心の中では、嫉妬心の力を借りて、もうすでに実在の武蔵ではない武蔵の「幻想」
が増殖していた。その彼の中の幻想の武蔵は、絶対的なもの、もうすでに何もかもを成し遂げた神に近い存在なのだ。「とうとうや
り遂げたな」と言った彼は、武蔵にどのような答えを求めていたのか。それはおそらく「ああ、やり遂げた」という肯定の言葉だろう。
つまり又八は武蔵に、自分が負けたということを明確に知らしめて欲しかったのである。
それだけに再会した実在の武蔵の未だ衰えぬハングリー精神が、彼は許せなかったのである。

このように武蔵と又八は、又八が自分の中に描いた巨大な武蔵の幻想によってその再会を阻まれている。彼らは真の意味では再会できな
かったのである。このマンガは二人の再会を通して、再会の不可能性を描いている。
幻想についていえば、武蔵は武蔵で、その他者の幻想を抱いている。その相手はお通。彼は又八の暴言のなかでも、お通を汚す言葉だけ
は許せなかった。彼の言葉はお通本人ではなく武蔵の中のお通を汚したのである。
会えないだけに募る他者の幻想(妄想?)、それを武蔵と又八は体現している。

虚飾の又八 ★★★★★
いつの時代にもいるのだろうな、中身のない飾り立てた人生の中に生きる者。
心の隙間というか、隙間だらけの又八は、そんなことじゃお杉婆さんにも
顔向けできん、ちゅうもんじゃ。
昔バブルの頃、「心の隙間お埋めします」という台詞で有名だったマンガありましたが、
そのセールスマンと又八を会わせてみたいものです。

伊佐
伝七郎との戦いで感じたもの ★★★★★
一年前にほとんど歯が立たなかった吉岡兄弟に対し、成長した武蔵が完勝。
ぬくぬくと過ごした人間とギリギリのところで突っ走り続けた人間ではまったく成長の大きさが異なってくる、という事実は日々の仕事の中でも感じます。
ここまでの24巻と比べてこの25巻は結構訴えてくるものがある気がするのは私だけでしょうか?
「やり遂げてなどいるもんか」 ★★★★★
22巻のあとがきを読んだ時、「漫画家・井上雄彦はこんな高みにいるのか!」と驚愕したものだ。
その精神は武蔵へと投影されている。

伝七郎との戦いを終えた武蔵に又八が向けた言葉「とうとうやり遂げたな」。
その言葉への武蔵の返答に目からウロコが落ちる思いであった。
まさに「まだ行くのか」「まだ行くのかよ、武蔵」である。
動きを止めない、流れ続ける武蔵がそこにいる。

小生は宮本武蔵のような偉人ではなく凡人であるが、
心の在り様は常にこの武蔵のようで在りたいと思う。