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悲劇の誕生 (岩波文庫)

価格: ¥882
カテゴリ: 文庫
ブランド: 岩波書店
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人はなぜオチを知っている話に夢中になるのか。 ★★★★☆
 「アポロ的」な理性による世界把握/記述の外部に広がる、「もの自体」(byカント)の世界。この「外部」のカオスを認識し一体化を欲求することを、いま「ディオニソス的」な情動として置いてみよう。ニーチェにとって生とはこの二つの背反する力の相克だったわけだが、ギリシア悲劇の起源がセリフや演技ではなくコーラス音楽だったことに着目し、ディオニソス的なものをアポロ的日常に召喚するものだったギリシア悲劇が如何にアポロ的演劇に変化していったかという分析が、ひとまずは本書の骨格となっている。だが、ギリシャ古典悲劇から随分時代が経ったお友達のワーグナーをディオニソスとアポロの二つの世界の相克が込められた「悲劇」を再現した才能として賛美する話がかなり強引にくっついているため、論理の進め方が飛躍的で学術的ではない、という評価が出版当時吹き荒れ、結局この本の出版はニーチェの文献学者生命を絶つきっかけの一つになった。そういう意味では確かにラフな書き方の本なのだが、ニーチェの本の論理展開はいつもこうなので(笑)、僕は彼の記述スタイル自体は余り問題だと思っていない。
 
 寧ろ僕は話の中身の方で気になっている点が一つある。かつて福田恆存はマクベス論(「人間/この劇的なるもの」)で、オチの分かってる悲劇に人が惹かれる理由は人間が演劇的存在だからだと論じたが、ニーチェも初期ギリシャ悲劇は筋の展開を最初に登場人物が語ってしまうことを挙げ、筋や演技以外のものを観客達は鑑賞していたはずだと指摘する。彼の分析ではディオニソス的なものを見ていたのだということになるのだが、じゃあなぜディオニソス的なものに人が惹かれるのかという動機の話になると、案外話が薄かったりする。それはアポロとディオニソスの間を永遠に運動することがニーチェの語る生の根拠/動機であり、人がディオニソスに惹かれるのは論じるまでもない生の情動だからだ。僕はこういう熱いニーチェを読むと確かに元気が出るので好きなのだが、でも、マクベスやギリシア悲劇に限らず勧善懲悪時代劇や歌舞伎の心中ものみたいな例も含めて、人がなんで「オチが分かってる話」に夢中になるのか、という動機の話はもっと広がりのあるテーマなような気がするんだよね。今回は特に悲劇論として本書を手にとったので、そこが星を一つ削った理由です。
古代ギリシア礼賛 ★★★★☆
 ニーチェの著作はどれでもそうですが、とても平易な文章で読みやすいです。論旨も非常にわかりやすいので、レビューを見るよりそのまま「悲劇の誕生」を手に取った方がいいと思います。
 というと、あまりにお粗末なので、簡単に私が思った事だけ書きます。本書の内容については、直接読んでください。
 本書はとても面白かったし、興味深い内容だと思います。ただ、一つだけ難癖をつけると、ソクラテス主義によって産まれた合理主義、そして自然科学が神話を破壊してしまい、文明の衰退に繋がるかのような記述はどうかと思います。自分のやっていることは科学技術なんかよりも優れている、と言う自己顕示欲のようなものなのかもしれません。
熱に浮かされたような高揚した文章は苦手なんですけどね ★★★☆☆
ニーチェの処女作にして古典文献学会から追い出される羽目になった著書。
異を唱えたいのは、訳者秋山氏による巻末解説。彼の文を読む限り「悲
劇の誕生」がなぜよいのかがわからない。そこからは「ニーチェが牽強
付会、強引な論述の数々をおこなっている(苦笑)。天才だからしょう
がないよね」というネガティブかつ思考停止な評価しか伝わってこな
い。秋山氏がなぜニーチェを評価しているのかとても謎。しかもちゃん
と理解しようとさえしていない態度に噴飯。たとえばソクラテスを主知
主義者としたり、ムーサイの術を音楽(music)に解釈したりするのは
ニーチェの強引なやり方の現れとしているが、19世紀〜20世紀初頭では
上記解釈が通説だったので(例えば同時代人のヴィンデルバントやシェ
ヴェーグラーはソクラテスを主知主義者と規定しているし、20世紀初頭
の英書などではmusicと訳している)、別段ニーチェ特有のことではな
い。
★★★☆☆
『キリストの変容』この一枚の絵を見ていると不思議な感じがします。四、アポロ的・ディオニュソス的なギリシア文化の推移 のところにあります。ここで彼は一つの仮定を立てています。それは必然的な仮定です。

「真に実在する根源的一者は、永遠に悩める者、矛盾にみちた者として、自分をたえず救済するために、同時に恍惚たる幻影、快感にみちた仮象を必要とする仮説」

時間・空間・因果律の生成である現実性に生きる人間は、「仮象」で成立しており、根源的一者の表象は「仮象の仮象」と定義されています。この説明を受けて『キリストの変容』を見ていると「仮象」「仮象の仮象」という形容が分かるような気がします。
キリスト教は、禁欲主義的理想によって人間の意志を救済したように思えるが、道徳こそは人間の生を脆弱なものにしたのではないか。ディオニュソス(=酒と陶酔の神バッカスのギリシア名)的な考えは、本来の人間の生のあり様を志向したものではないのか。
本書で詩・音楽・芸術一般が語られるのも、科学でさえも芸術に転ぜざるをえないからだと位置づけています。なぜならば私たち人間は「万物を生み出すその生殖の快感とわれわれが融けあってしまった一つの生き生きとした存在者として」(十七、理論的世界観の芸術的現象)存在するからです。
それは 音楽をやるソクラテス という言葉に表れています。
キリスト教の生の倦怠・嘔吐を振り払い、生の本能的な可能性を考究しようとした、それは最期の遺稿集『権力への意志』にもつながっているテーゼだと思います。
反・精神分析学的悲劇解釈 ★★★★★
 本書はニーチェの著作の中で最も難解な書物であり、すでにニーチェに親しんでいる人でなければ理解の手がかりを得られずに若い著者の興奮の渦の中に飲まれてしまうだろう。ニーチェを知らない人は、同社から出ている『ツァラトゥストラ』を先に読む事を勧める。

 現代哲学において本書が持つ意義は、フロイト以降優勢であり続けた精神分析家による悲劇解釈に真っ向から対立する解釈学を打ち出している事である。オイディプスにしろアンティゴネーにしろ、彼らが問題にするのは常にドラマの主人公達であるが、ニーチェが悲劇の起源として注目したのはドラマではなくコロスであった。

 アテナイはアリアドネの棄却の上に成り立つ都市であり、そのアテナイを、アリアドネが捨てられたナクソス島に変容させる試みこそが悲劇であり、観客達に見られる者でありながらドラマを見る者でもあるコロスは、見られる者としての互いの姿の中に見る者としての自己を見いだすアリアドネとディオニュソスのカップルの体験を、観客達が反復するための装置だった。

 本書は、途中まではこのコロスが本来の役割を失っていく過程を描いていると言えるが、その決定的な作品が、アリアドネを捨てたテセウスが盲目のオイディプスを迎え入れる『コロノスのオイディプス』である(ニーチェならばエディプス・コンプレックスのかわりにテセウス・コンプレックスを発見していただろう。テーバイでは超自我とエスが一者化して政体が混乱し、アテナイにおいてそれらが正常に二者に分かれ、ナクソス島では分かれた二者の役割が入れ替わる)。なおこの考えは本書の中で詳細に語られるわけではない。本書は膨大な思想群の中から抜き取られた一塊であり、一個の作品としてはもとより、初期ニーチェを理解する為の重要な資料としても読まれるべきであろう。