現代哲学において本書が持つ意義は、フロイト以降優勢であり続けた精神分析家による悲劇解釈に真っ向から対立する解釈学を打ち出している事である。オイディプスにしろアンティゴネーにしろ、彼らが問題にするのは常にドラマの主人公達であるが、ニーチェが悲劇の起源として注目したのはドラマではなくコロスであった。
アテナイはアリアドネの棄却の上に成り立つ都市であり、そのアテナイを、アリアドネが捨てられたナクソス島に変容させる試みこそが悲劇であり、観客達に見られる者でありながらドラマを見る者でもあるコロスは、見られる者としての互いの姿の中に見る者としての自己を見いだすアリアドネとディオニュソスのカップルの体験を、観客達が反復するための装置だった。
本書は、途中まではこのコロスが本来の役割を失っていく過程を描いていると言えるが、その決定的な作品が、アリアドネを捨てたテセウスが盲目のオイディプスを迎え入れる『コロノスのオイディプス』である(ニーチェならばエディプス・コンプレックスのかわりにテセウス・コンプレックスを発見していただろう。テーバイでは超自我とエスが一者化して政体が混乱し、アテナイにおいてそれらが正常に二者に分かれ、ナクソス島では分かれた二者の役割が入れ替わる)。なおこの考えは本書の中で詳細に語られるわけではない。本書は膨大な思想群の中から抜き取られた一塊であり、一個の作品としてはもとより、初期ニーチェを理解する為の重要な資料としても読まれるべきであろう。