思考への挑戦
★★★★★
ニーチェが発狂する前年になった最後の著作である本書は、自らの著作や思考についての全貌が描かれています。氏が何を見つめ、何を思い、何を考えたのかについて垣間見ることが出来ます。
果たして本当の意味で氏の思考に到達した人はいるのでしょうか。
「攻撃する者の力の強さを測る一種の尺度は、彼がどんな強さの敵を必要としているかに依っている。人の成長度を測るには、その人が自分よりどれくらい強力な問題を探しているかを見れば自ずと分る。それというのも、戦闘的な哲学者は人間だけではなく、問題に対しても決闘を挑むものだからである。その場合の彼の課題は、抵抗して来るものに何にでもかににでも打ち勝ってしまいさえすればいいということではなく、彼が自分の全力量、全技術、全武術をあげて戦わなければならないような相手―つまり自分と対等の相手に対し打ち勝つということでなければならない」
ニーチェと私たち
★★★★☆
この書において、ニーチェは彼一流の語り口によって、彼自身の人生を回顧している。彼はキリスト教の理想を撲滅しようと欲し、この書においても、終わりの方でとりわけ破壊的な論調で、価値転換の試みを強調している。
・・・ニーチェの本を読むに際し、しばしば起こることなのかもしれないが、注意すべき点があり、それは彼の本を読み、そして自分がニーチェの「性質」を自己の内部に取り込み、行状において彼のやり方を模倣してしまう、ということである。行き過ぎた自負に基づく行為は破滅へとつながり、それは、ニーチェほどの精神の持ち主でも持ちこたえ得なかった、という事実によっても立証されている、と思われる。
我々は、ニーチェが「賤民」と名指しするような人々に対しても、心から軽蔑するようなことがあってはならない。摂理に反する行いには罰が伴い、ニーチェの運命も、彼の行状に対する罰であった、という側面がなかったであろうか?
一般に、どのような人間に対しても、一定の善意や愛情を持っているべきであると思われる。
ニーチェの信仰に関しても、「ニーチェ以来、神は死んだ」という言い方がなされる場合があるかもしれないが、しかし、ニーチェが神から開放されたいと欲し、「神は死んだ」と宣言した、という理由によって神が死んでしまった、というようなことが果たして起こり得るであろうか?
この点も考えるべきであると思われるのである。
・・・そういうわけで、我々は、ニーチェの著作を読むにあたっては、同時にニーチェ自身についても考え、彼の偉大さを感じる一方、彼の思想は、自己の精神の拡充を図るものとして取り入れる、という姿勢で向き合うべきである、と思われるのである。
(注) これは実は、ニーチェ研究家の西尾氏を含め、誰か特定の個人を批判(非難)したわけではない、というつもりだった、という次第なのである。
自分をも破壊してしまう思想
★★☆☆☆
ニーチェの自作の書評のような形式をとった作品。発狂する直前に書かれたものとあって、かなり自信満々に書かれていて「ちょっとは遠慮しろよ」って突っ込みたくもなります。しかしながら、ニーチェ作品を読み返す上で貴重な資料であることは間違いありません。
『価値の転換』というニーチェの野望は、自身が敵対視したキリスト教的価値観をその対極として見定めなくては成立することが非常に難しく、端的に言えばキリスト教的価値観を前提にしなければ語りだすことができないものであり、必然としてキリスト教的価値観を承認せざるを得ないという奇妙な帰結が成立ってしまう。その点から見るとデュオニソス的という価値観を提示したところで所詮マイナーなままで終ってしまうような気がしてならない。
ニーチェの苦悩に耳を傾けることは大切なことだが、彼の考え方は自身の生き方を非常に狭小化してしまうものであり、永劫回帰などの思想にはそのような自身の中で袋小路にはまり込んでしまう危険性が垣間見られる。そのような訳で彼の思想を人生の参考にすることはまずできないし、するものではない。ニーチェから私たちが学ぶことは、彼が試みた『価値の転換』という思想の展開と失敗、及びその後に続く実存主義などとの関連性の中で、自己の限界性と無意識に入り込んでくる(他者的な)価値観というものの正体を解きほぐす方法論の導出はいかにして行えるかと言うことであるように思う。
破天荒で有名な自叙伝
★★★★☆
自伝であると同時に自己の思想解説書兼ガイドブック。自著を解説する
章のタイトルが「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」。初めて読
んだとき、中学生だった自分はこの文句に参ってしまった。
訳者:西尾幹二氏の「新しい歴史教科書を作る会」脱会を何よりお祝い申し上げます。
★★★★★
西尾幹二氏には、形而上学思索の面で極めてもらいたい。現実政治を混沌とさせているだけで、情緒を爆発されているようにしか見えないから。
さてこの書であるが、いわずと知れた、ニーチェの代表作の一つ。
この人をみよ、ラテン語のキリストを見よをもじって、自分を見よといっているのである。
超人思想の極みであり、衆愚:畜群を侮蔑しながら、同時にそれを司る「保守主義者」もなぎ倒す。ニーチェは形而上学の革新者であり、絶対に「保守」なのではない。ゆえに、西尾氏には、政治の「保守」には、似合わない。