「ティファニーで朝食を」などで知られる作家、トルーマン・カポーティの半生に迫ったドラマ。カンザスでの一家惨殺事件に興味を持った彼が、服役中の犯人に取材を試み、「冷血」として小説に書き上げるまでを描く。死刑を宣告された犯人を自作に利用しつつも、やがて親近感を覚えて戸惑うカポーティ。作品のために“冷血”になっていた彼が、死刑を前にした犯人の心を知る過程は、感動的でありスリリングでもある。
本作最大の見どころは、フィリップ・シーモア・ホフマンの演技だろう。ゲイであることを隠さなかったカポーティを、高めの声で表現。電話の受話器をつかむときなど、つねに小指を立たせるあたりが笑える。一方で自分の作品のために卑劣になる男の姿は、ある意味、リアル。本作は人間のダークな本能にも焦点を当てているのだ。またカポーティの親友や容疑者などキャストのアンサンブルも見事。そして観終わった後も印象に残るのは、映像の数々である。野原に建つ家や、殺された家族の部屋など、その構図や、惨い状況に反した落ち着いた色づかいは、1枚の絵のように不思議な美しさをたたえている。(斉藤博昭)
チビのオカマ野郎
★★★★☆
私が言ったのではなく同世代のジャック・ケルアックがテレビ局で鉢合わせしたときカポーティに怒鳴ったという。いろんなケルアック伝に書いてあるからほんとの話だろう。アメフト選手の奨学生としてコロンビア大学に入学したケルアック(マサチューセッツ州ローレル生まれフランス系カナダ人)と複雑な家庭に育った南部人の小男・カポーティはいろんな意味で対象的である。若くして名声を得たカポーティに殆ど浮浪者のような生活をしながら書き続けたケルアックは嫉妬心もあったんだろ。1968年の早大第二文学部英文科に入学した私は英語の授業のテキストに「草の竪琴」があったのを記憶している。ちょうど日本でも「冷血」が出たときで学生の間でも話題になった。カポーティは「冷血」以後小説を書かず寡作な作家なので殆ど英語で読んでいる。私の評価は過大評価された作家ということである。カポーティは「ニューヨーカー」誌に書く小説家だがみな嫌いである。「冷血」が大ベストセラーになった後スランプに陥り全く書けなくなったのは「成功」の代償である。カポーティは映画に出演している。「名探偵登場」でデビッド・ニーベン、ピーター・セラーズ(笑はせる)と共演。見ると粘っこい英語を話す不気味な小男である。52歳くらいなとき。ローリング・ストーンズの1972年の全米ツアーに取材と称してジャクリーヌ・ケネディの妹と同行している。
「冷血」を読みたくなる!
★★★★☆
本作ではフィリップ・シーモア・ホフマンの演技力が十二分に発揮されています!
「リプリー」や「マグノリア」など、これまでもクセある映画のクセある役をやってきている彼ですが、
本作では主演としてさらに自由に演じている様子が感じられました。
カポーティはとてもつかめない人物だったのではないかということが、全編を通して感じられます。
犯罪者との関係はどこまでが事実なのかはわかりませんが、
とってもこだわりぬく性格だったんでしょうね。
「冷血」がノンフィクション小説の先駆けだったことがわかり、
また映画を通してその様子を垣間見ることができ、
彼の作品を読んでみたくなりました。
時代背景もうまく表現されていて、
時々出てくるアメリカの風景がキレイでした。
コピーと中身の乖離。
★★★☆☆
正直、この映画をみ終わって、コピーが内容とずれていることにまず戸惑った。
「なによりも君の死を恐れ、誰よりも君の死を望む。」
実際の映画のカポーティは、早くペリーが死んで結末を書きたいという事ばかり考えているように見える。前掲のコピーのように、愛するものと自分の仕事との間の矛盾に悩むようなことは一切ない。
じゃあこの映画の価値はどこにあるのか。映画を一緒にみた、大切な人と御飯を食べながら話した。その結果、今は次のように考えている。
カポーティがペリーの話を聴きながら、ペリーを理解し、自分の言葉に組み立て直して小説として構築するというとてつもない作業を進めるうちに、ペリーと自分の共通する暗部を描写していることが「冷血」が傑作たる所以なのではないかということ。そしてその構築の作業はカポーティに相当の負担をもたらしていたのではないかということ。
だが、「冷血」を読めば分かるがカポーティの調査は全ての関係者の詳細なプロフィールにおよび、それらを病的とも言えるほど綿密に書いていることがこの作品の特徴のひとつでもある。つまり、「冷血」はペリーの物語ではないのだ。そこをばっさりと省略したこの作品は、必然的にペリーとカポーティ、そしてカポーティの恋人と友人の関係にフォーカスされる。ところが、カポーティとペリーの間には男性同士の愛情は特に生まれる気配もなく、ただ自分を投影した取材対象としてペリーを追い詰めるカポーティしかいない。
むしろカポーティの恋人や友人との関係の方が見どころがあるのではと期待したが、それもあっさりとしか描かれていない。
結局、観てても淡々と物語が進み、しかも「冷血」を読んでいる人なら結末が分かっているのでラストに向けてのドキドキ感もない。
映画としては優秀な作品でめったにみないタイプのものだが、映画というフォーマットの中では物足りなさを感じてしまう。書籍であればもっと微に入り細に入り書けるのであろうが、映画では時間の制約もある。そのような諸条件のバランスがうまくとれていない作品であった。
退廃した上流階級の欺瞞vs殺人犯の悔恨
★★★★★
大変見応えのある心理劇です。
カポーティーの卓越した感性・才能に驚きですが、同時に殺人犯に対する彼の客観的なスタンスに嫌悪感をもってしまいました。これもカポーティーの計算のうちなのでしょう。
時代の寵児でありながら、長年殺人犯に向き合い、「アミーゴ(友よ)」と呼ばせ、ついには大量殺戮の内側をえぐり取っていく手腕は見事言うほかないです。
殺人犯ペリーと向き合っていくときに彼の人間性もまた焙り出されていきます。自をも「冷血」と呼ぶことを肯じえなかったのもまた才能故でしょう。人間の感性・良心の負荷を担いきれないのは逆説的でもあります。
上流階級の退廃と欺瞞を侮蔑しながら、殺人犯の悔恨と償いに最後まで付きあうことをする主人公は、弱さという意味おいては凡人と変わることがないのかな、と嘆息しました。
罪を描くということ
★★★★★
最初、なんて暗い作品なんだと思い真面目に見なかった。しかしラストを見たときもしかしたら私はいいものを見逃したのではないかと思い今度は真剣に鑑賞した。画面のモノトーンな感じに統一された美しさ、言葉の調子、話の内容が見事に調和していてやはりいい作品だと確信した。その後もととなった「冷血」を読みカポーティ自身の才能に圧倒され、カポーティ生前の動画をみてホフマンのあまりの演技の徹底ぶりに感嘆した。
本作はカンザス地方で起こった一家惨殺事件をカポーティが取材することになることから始まる。そこで容疑者であるペリーとディックに出会い取材を続けているうちにペリーに感情が傾倒していく。
「何よりも君の死を恐れ、誰よりも君の死を望む」
彼が描いたのはペリーとディックの犯した惨殺事件の罪なのか、ペリーに助けを求められながらも作品完成のために半ば見殺しにした自身への罪なのか。トルーマン・カポーティという作家に興味を持つきっかけを作ってくれたこの映画に感謝したい。