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種の起原〈上〉 (岩波文庫)

価格: ¥1,050
カテゴリ: 文庫
ブランド: 岩波書店
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真の科学者とは? ★★★★★
 現代の基準に照らしてみても「ダーウィンってすごいな」と思わずにはいられない。現代の研究者にはものをじっくりと考える時間がほとんどなく、ともかくもデータを取るので必死だ。そして研究の先にあるビジョンについて語らせれば、テレビのワイドショーで使われているような陳腐な決まり文句がポンポン出てくるので、聞いている方が恥ずかしくなってくる。本書を読むと、物事をとことんまでつきつめて考えることがどれほど重要であるか、身に染みて分かってくる。
衝撃的な理論は、人並み外れた真摯な態度から生まれるのだ ★★★★★
画期的な論理を展開した科学者の多くが、宗教との対立など、センセーショナルに語られるのだが、彼らは、驚くほど挑戦的ではない。より真実に近いことを追求しようと、あらゆる情報を精査し、長い時間を考え続け、そして、自分が納得できる論理を紡いでいく中で、やっと、その理論に至っている。この本を読むと、その思考の過程を垣間見ることができる。いや、かなり実感できる。しかし、この本を手にしたほとんどの人間は、最後まで読みきっていないことが、ほぼ確実に予想できる。大抵の人間には、ダーウィンほどの忍耐強い観察と思考についていくことは不可能なのだ。しかし、読みきれないからこそ読む価値がある本もある。数ページでも読み進めれば、自分が如何に浅はかな閃きを求められる世の中に生きているか、ということに気づいてしまうだろう。そして、いつか、これを読みきれる人間になりたいと願う。(読みきれない人間のメモ)
論理の飛躍 ★★★☆☆
 古典を批判することは厳禁であると考えれている。これがすべての科学的な書物に妥するとは限らない。
 種の相違をDNAの相違、ゲノムの相違として1%異なるとかと考えられて種が区別されるが、この区別はどこまでも相対的区別であって、一つの種が他の種から分岐したとは考えられない。分岐というからには、一つの種が一定のゲノムをもち、それから別の一定のゲノムをもつ種が派生したことを証明しなければならない。これを現存のゲノムの相違から分岐したするのは非論理的である。
 生物であるから、全く相違しているとは考えられないが、だからといって、現存の種の違いから、一つの種から別種が連続的に分岐、派生してきたいうのは論理の飛躍である。さまざまな種が存在しなければ、生物ということも考えられないし、逆に生物というときには、さまざまな種を考えているのである。これを分岐によって一つの種に連続させてしまうのは、論理の飛躍である。人はこの論理にいつになったら気づくのであろうか。
進化は認めても“生物意識”は認めない「非科学進化論」 ★★★☆☆
◆本書は、「種」を定義することなく「種の起源」を論じるという根源的誤りを犯した。それが「ヒト種の始まり」を定義できずに、類人猿との差異化の起源を「ヒト起源」と呼ぶ、今日の進化論をもたらした。このような進化論は、「ヒトはその起源からヒト」という「創造説まがいの進化論」である。◆本書が表す進化論では、進化を認めても、「ヒト=理性(意識)ある動物」という近代的ヒト定義は変わらない。もともと「理性(意識)」そのものをヒト固有で定義しているから、「ヒト起源が最初のヒト」では、「ヒトに意識は最初からあった」としかならない。つまりこのような進化論では「意識の起源」は求めようがない。◆また、本書は育種のメカニズムを「人為選択」と呼んで、自然選択とは対置した。これも「理性(意識)はヒトに固有」という近代的ヒト定義(人間観)に基づいている。◆「人為選択」とは、ヒト脳の演算機能により、ある規則に基づいた交配を、ある生物種に対して累代的に行うことだ。しかしながら、脳を持つ動物なら、配偶者選択は必ず自分の脳の演算で行っている。また、交配を動物に依存する植物だって、動物脳によるある規則に基づいた交配選択を、累代的に受けている。◆ヒト脳による交配選択を特別視した「人為選択」は、進化起源論を誤り、意識をヒト固有と思い込む概念設定である。一方「自然選択」はこの裏返しで、意識がヒト以外にないという思い込みから生まれた“虚構”である。本来、進化を認めるなら、意識も時系列上の各「種(ステージ)」ごとに進化したと考えなければおかしいのだから。◆ゲノム生物学は今日、「ヒト=包括的ヒトゲノム(ヒト細胞核機能)による表現型の総合」という科学的ヒト定義を提供する。本書のような非科学的ヒト定義に基づく「非科学進化論」は、ただちに棄却すべきである!
共時的種と通時的種~看過ごされてきた基本問題:One Point Review ★★★★☆
◆ダーウィンの種分岐論はこういう。昔ある種Aがあったとする。あるとき、それが亜種を経て独立の種Aa、Abに別れた(A→Aa&Ab)。このとき、もとの「種A」は「属A」に“繰り上がる”(奇妙なことに、ここで種Aが「絶滅した」と彼は考える。Aは「生き続けた」からこそAa/Abに進化したはずだが)。◆さらに時を経て、種AaがAa1とAa2という種に分岐したとする(Aa→Aa1&Aa2)。このとき、同時にAbも種分岐した(Ab→Ab1&Ab2)とすると、Abも属になる。AaとAbの共通の祖先Aは、「属Aa」と「属Ab」の上位タクサ、つまり「科A」ということになる。この場合、系統進化の「繰り上がり」は整合的である。じつは、ダーウィンはこの場合しか考えない(4章、14章)。◆ところが、Aaの分岐時点で、種Abがまだ単一種に止まっている場合、系統「繰り上がり」に矛盾が生じる。つまり、Aは「属Aa」に対しては「科」になったのに、「種Ab」に対しては「属」のままである。この矛盾を解決するには、「種Ab」を無理に属扱いすればよい(「1属1種」)。ダーウィンは長期間同一の種に止まる場合もあると認めている。もし当初のAの分岐でAa、AbのほかにAそのものがそのまま存続したらもっとややこしくなる。◆さて現代進化学では、形態的に大きな差異が生じると、単系統で生殖的に連続(親子関係継承)の生物系統にも、異なる属名をつける。人類は、ラマピテクス属、オーストラロピテクス属、ホモ属(種はH.ハビリス、H.エレクタス、H.サピエンス)を渡りあるいた(?)ことになる。これはダーウィン的な系統「繰り上がり」論とは相容れない属概念である。ダーウィン流では種を遡ると属、それを遡ると科に行く。種(共同生殖集団)は種から生じる。しかし、属から他の属に遡るという話にはならない。論理的にはダーウィンのほうが正統的である。彼は、「種の通時的な変遷」をとらえている。現代進化学は、単系統の生物種(通時的な同一種)を形態種(共時的種)で区分して矛盾をきたし、ついには「種は実在しない」という逃げ道に逃げ込んでいるように思われる。