デビュー作同様本書のテーマも「よそ者」だ。リーは、自分の存在についてジレンマを抱えながらも、周囲に合わせようとするあまり過剰なサービスを繰り返す「よそ者」の姿を克明に描いている。主人公フランクリン・ハタは、カメレオンのように次々と仮面を変えながら、本当の自分を隠しとおす人生を歩んできた。在日コリアンとして生まれ日本人の養子となった彼は、なんとか日本の文化に溶け込もうと懸命の努力を重ねる。第2次大戦終結後アメリカに渡った彼は、ニューヨーク郊外の小さな町ベドリー・ランに溶け込もうとふたたび最善の努力を重ねることになる。だが、どちらの国でもハタの努力が必ずしも報われていたとはいえない。そのことが本書に漂う奇妙な悲壮感の原因となっている。
どこへ行っても居住外国人扱いのハタはこう告白する。
「ほぼ完璧といえる軽さの感覚、つまりある場所にいながらそこにはいないような感覚に象徴されるなにかが、そこにはあった。もちろん私の長い人生がそういう状態だったともいえるし、同時にまた、そのなにかは日々の膏薬ではあるけれど、完全に治ることを期待しているわけではない治療にも似た複雑なものであり、そのため病いはおのずから増殖して、ひたすらその人間と一体になるまでつづくのだ。それが私の人生観となった。なんであろうと手近なものに合わせていく」
『A Gesture Life』はまったく異なる2つの時代を背景に、このハタの心の慢性症状を描いた作品である。まずはフラッシュバックとともによみがえる、ハタが医務士官として勤務していた帝国陸軍時代の思い出だ。ビルマ郊外のちっぽけな軍事施設に派遣された彼は、韓国人女性を従軍慰安婦として扱うこと、いわば制度化された集団暴行を黙認するよう命じられる。はじめはハタも仕事として割りきった態度をとっていた。だが若い彼自身の欲望についてはそうもいかなかったようだ。「空爆のサイレンを聞いたかのようにすぐさま私を揺さぶったのは、その貧しいしわだらけの衣服の下にあるものへの意識だった」。ところがじきに彼もある1人の慰安婦を愛するようになる。そしてその女性が迎えた痛ましく悲惨な最期により、ハタはそれから「ジェスチャーだけの人生」を歩むことになるのだ。
舞台がアメリカに移ると、ベドリー・ランでのハタの暮らしぶり、不和が続いていた養女サニーとの関係修復などが中心に描かれていく。戦争時のトラウマと比べれば、この平時の描写はどことなく見劣りしそうなものだ。だが不思議なことに、アメリカ郊外の町でハタが過ごすこの郷愁の日々は戦時中のエピソードよりもはるかに魅力的である。「しだいに発覚する彼の過去」という設定は本来なら物語の緊張感を徐々に高めるはずのものだが、リーほどの才能ある作家が用いると、かえってありきたりなテクニックに思えてしまう(事実、彼のスピリットにもっとも近い後見人は、読者の同意を瞬時にして勝ち取るジョン・チーヴァーといえるかもしれない)。
しかし、だからといって『A Gesture Life』の魅力が何ひとつ損なわれることはない。2つの時代を語るそのゆったりとした筆致はまれにみるエレガンスに満ちている。仮にこの2つの時代のつなぎが完璧な形で行われていないとしても、リーはほとんど感動的ともいうべき鮮やかな妙技でそれをカバーしている。なにしろ、彼はわれわれ読者に「もしなにか選ぶ立場に立たされたとしても、常に寡黙で人目をひかない」という主人公の皮膚感覚をそのまま実体験させることができる、類まれな作家なのだ。(James Marcus, Amazon.com)