人の因果
★★★★☆
「脱線」
1 汽車や電車などの車輪が線路からはずれること。「列車が―する」
2 話や行為が本筋から横道にそれること。「話が―する」(大辞泉より)
おそるべき脱線小説です。時間軸はあちらこちらに飛びまくる。「ウナギについて」というとんでもない脱線もする。しかし物語は、干拓で整理し、だが最終的に元の湿地帯に戻ってしまうフェンズのように、収束していきます。
繰り返される歴史、目新しく見える革命ですらも回帰にすぎない。「いま、ここ」にいるということはどこにも行けずただ流されていくしかないということ。読みにくいようで非常に凝った技巧、歴史の考察にみられる広範な知性が感じられる一作でした。
「無」のなかの「有」の明滅
★★★★★
妻が起こした嬰児誘拐のために職を追われることになった歴史教師トム・クリックが、カリキュラムを無視して生徒たちに語り始めます。彼の故郷であるフェンズという土地について、フェンズから人間による支配を一掃する水について、彼の兄と父そして急逝した母について、後に妻となるメアリ・メトカーフとの幼い頃からの関係について、フェンズから利益を引き出しつつも其処に屈することになるビール醸造業者のアトキンソン家について、そして其処に暮らす無責任な大衆について、フランス革命について、世界大戦について。これらをトムは、「歴史」そして「物語」として生徒たちに語ります。
作家は短い章を巧みに配置し、広大な土地とそこを貫く時間の流れ、そして無数の人々が織り成す「歴史」=「物語」を描いていき、読者はその中に飲み込まれ圧倒されることになります。
後の『最後の注文』においてこの手法は、複数の語り手という形式に姿を変えて再び現れることになります。『ウォーターランド』は、『最後の注文』と比較して洗練度では若干劣るかもしれませんが、物語の拡がりという面では圧倒的です。どちらが小説として優れているという問題ではありません。
これだけの力量を持った作家の作品が、前述の二作品と『この世界を逃れて』(絶版)の三作品しか邦訳されていないのは残念なことです。グレアム・スウィフトは、イングランドの現代作家の中でも極めて重要な存在だと思うのですが。
時間(その長短は優劣とは無関係)と空間(その広狭は優劣とは無関係)を巧みに設定し、その中で人間の行動と心の動きをきめ細やかに描いた作品というのは、現代作家においてはそう多くないのですが、この作品はそういった数少ない稀有な作品の中の一つでしょう。
余談ですが、グレアム・スウィフトは『最後の注文』でブッカー賞を受賞していますが、なぜ『ウォーターランド』がその栄誉に浴することがなかったのか疑問です。ブッカー賞の意義や選考基準、当該年の受賞作品については知りませんので単なる個人的な違和感に過ぎませんが、イアン・マキューアンが『愛の続き』でなく『アムステルダム』で受賞したこと程ではないにしても、やはり疑問が残るところです。
人生を語る重厚な小説
★★★★★
「子供たちよ・・」 ロンドンの高校の歴史教師トムは、生徒に向かって語りかける。彼が生まれた水郷フェンズの土地の物語、そこでの家族の歴史、知恵遅れの兄ディック、現在の妻であるメアリーとの愛と性など。ウナギについての考察やフランス革命、そして自然史についてなど紆余曲折しながら彼の物語は続く。が読んでいくうちに、彼が現在置かれている状況、そして過去の殺人事件や祖先や家族についての謎などが自然に明らかになり、彼の壮大な「物語」が終わる。
久しぶりに読んだ「いい小説」という感じがした。小説家の莫大な知識を、話の中に上手くちりばめたこのような本は、初めて読んだような気がする。日本語の翻訳も重厚な文章で「翻訳」であることを感じさせない。