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日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)

価格: ¥1,620
カテゴリ: 単行本(ソフトカバー)
ブランド: 講談社
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確かに!俺たちは「省略」していない! ★★★★★
“Chicken or beef?”“I am chicken.”ベタな英会話のミスだ。実際に機内でこのコメディに遭遇したことがある。
しかし「私はチキンだ」という日本語の文におかしなところはない。そしてこの文は「私(が食べたいの)はチキンだ」の省略形と解釈されることが多い。とすれば、いつも日本人はこのような「省略」を行っているのだろうか?
実践者として北米の現場で格闘する筆者は、日本語に「主語」という概念はいらないとする三上章の主語無用論を確信する。「主語」は、明治維新以後、学校文法を構築する過程で英文法をモデルにしたに過ぎず、主語と述語が助詞でつながる「何は何である」を日本語は基本としないという。現代の日本語学は、主語を主格補語ととらえるが、本書は現場からそれを裏書きする。日本語文法を英文法の考え方と切り離すことで日本語の理解が深まり、より自然な日本語の習得が容易になるのは確かのようだ。
文脈の中でのみ意味が現れるシンプルな日本語は、共有する場の「読み」を対話者の双方に求める。本書は、日本語教育の進化と展開に光を差すばかりではない。日本語が促す「相互理解→絆形成」が世界の平和に役立つかもしれないとまで考えさせられる。
「私はチキンだ」といういわゆるウナギ文論争(「ぼくはウナギだ」の解釈論争)にも明快に決着をつける。「だ」は、「食べたい」「選ぶ」等の術語の代用であり、「どちらを食べたいの?と問うあなたと場の共有ができた上で答えますよ」ということを端的に返しているということになるのだろう。日本語は、世界の人間の距離を縮める言語なのかも知れないのだ。
英語中心の日本語理解を批判する ★★★★☆
「主語ー述語」「自動詞と他動詞」「人称代名詞」など、日本語でごくふつうに出てきそうな概念。
しかしこれは実は英語をそのまま用いたから入ってきたもので、日本語には存在しないし、強引に当てはめるとかえって日本語の理解を損なうのだ、と筆者は喝破する。


タイトルにもなっている「主語」、これは実は英仏語の概念であって、日本語にはもともとは存在しない。
日本語は述語で出来ており、「愛らしい」(形容詞文)、「赤ん坊だ」(名詞文)、「泣いた」(動詞文)の3種類で十分なのである。

冷静に考えてみると、日本語では主語を使わないことがほとんどであろう。
本書に載っていた例ではないが、例えば、よく出てくる自己紹介文「私は田中です」。これは一体具体的にどういうシチュエーションで用いる文章だろうか?
実は自己紹介のときは、ただ「田中です」ということがほとんどであることに気づくはずだ。

このように、日本語は主語を指定せず、コンテクストで規定することがほとんどなのである。
そして、主語のためといわれる助詞「は」は、主語に限らずトピックスを指定するものとして広く用いられているのである。


その他にもいろいろ載っているが、それについては本書を実際に読んでいただきたい。

内容は非常に面白いのだが、感情的表現やどう考えても関係ないだろう点での対人攻撃、筆者の身の上話的な雑談も多く、いささか読みにくい。
あと、日本語教師をしている母から聞いたのだが、日本語教育の場では三上的な主語不要、「は」は主語ではなくトピック、という考えがほぼ一般的らしい。
ただし、小学校の国語教育の場ではいまだに「主語ー述語」が使われており、そこで乖離があるという実態はあるようだが。

いろいろあって☆一つ引いたが、決して悪い本ではない。
日本語への考え方を深めるためにも読んでみて損はないだろう
興味はあって知識がない人にも読める でもテンションが… ★★★☆☆
日本語の基本的な構文の必須の要素として、主語を措定するのは誤りだ、というのが
タイトルの意図するところ。私も「日本語を習いたてのオーストラリア人」に、

ワタシワ ツカレマシタ

と得意げに言われて、可笑しさを禁じえなかった体験があった(その時は拍手したけど)ので、
ここから日本語の文法をとらえなおすことで、辻褄が合わないように感じていたことが、
いろいろと腑に落ちるようになるような気がする。

うーむしかし、文体に思い入れが強すぎて、「講談社メチエ」相応の学術性が
保たれているかどうかは疑問。不当に「日本語は非論理的だ」と決めつけられてきた
歴史に対する義憤の強さはよく伝わってくるのだが、助詞「は」の多機能ぶり、
特に読点(コンマ)を跨いで働きを示す点を重視して「スーパー助詞」とまで
名づけてしまうあたり、付き合いきれないものを少々感じてしまう。
生成文法の連中がジャーゴンを弄んでいるという批判も、今さらという感じもするし。

筆者自身の日本語教育法も(断片的ではあるものの)具体的に示されていて、
興味深く読めたし、三上章やら橋本進吉やらの大家の考えをぞろっとさらえる
お得感もあったし、良い本だと思うのですが、もうちょっと落ち着いて語ってほしかった
という本音はぬぐえない。好みの問題だとは思います。
馬鹿主語! ★★★★★
我が国の国語教育が英語のソレ(グラマ)を基本としているのが悲しいですね。
国語のくせに一体全体日本人に英語を教えたいのか、と訝ります。
しかしこれは黒船敗戦と二次戦敗戦のダブルパンチで屈服してしまったからでしょう。
僕はアイではなく、アイほど僕でない。
伊豆の踊り子の有名な冒頭を英訳することが難しいそうです。
そりゃそうだ、主語はないのだから。
英語の不自由さがよくわかった。 ★★★★☆
本書で敢えて取り上げられた人物を挙げれば、どのようなものかわかっていただけると思う。
・大橋巨泉
・大前研一
・松田道夫
本書を読む前に、本書の出発点ともいえる『象は鼻が長い』をまず読みたい。

本書を読みながら考えたことがある。

正しい文にするには、主語を必要とする言語では、日本語のようにわかっていることは明言しない言語をそのまま伝えることは不可能だということである。また、日本語を非論理的な言語だという人があったが、「彼は手をポケットに入れた」というのにわざわざ「彼の手を」を言わざるをえない英語は、省略可能な情報までも表現せざるを得ないという点で、日本語より合理性の低い言語であるといえるだろう。

語られない個所には、単なる省略ではなく、明言することによって対象を限定してしまうことを避ける効果もある。そのままにしておけばよい部分は、そのままにしておくという意味でもある。世界を全て理解できるものと見て、征服することを考えるのが英語であるとすれば、世界をありのままに捉え受け入れるのが日本語であるといえる。

日本語を英語の文法で理解しようとすることや、チョムスキーのように全ての言語が同じ深層構造をもつと考えることは、このような世界観の違いを全く無視し、日本語を滅亡させるだけでなく、日本人の世界観を滅ぼすことでもある。

日本という国に生まれ、日本語という言葉の世界で育った人間として、日本語らしい表現を失わないために、この本を読んでおきたい。