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日本語は亡びない (ちくま新書)

価格: ¥714
カテゴリ: 新書
ブランド: 筑摩書房
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日本語に内在する「地上の視点」が世界を救う ★★★★☆
橋本進吉の流れをくむ学校文法が、日本語の説明体系として破綻していることはもはや明白だ。程度の差こそあれ、ほとんどの言語学や日本語学者が学校文法に批判的だ。著者の金谷武洋も、カナダで日本語を教える教師で、三上章の文法理論によって主語廃止論を唱えている。

水村美苗の『日本語が亡びるとき』に対する反論という形をとっているが、実際には金谷武洋の日本語と言語に関する議論のダイジェストといった趣。外国で日本語を学ぶひとは激増していて、話者の減少という異様な意味での「滅び」には全く瀕していないこと、日本語にある「免疫」によって、外国語の語彙や概念が流入しても言語の本質が守られること、などが語られる。

さらに、述語中心の日本語に内在する「地上の視点」と主語・述語の二本立ての英語に内在する「神の視点」の対比という文明論にまで及んで、宮部みゆきの小説と、中島みゆきの歌詞が分析される。

ただし、小さな本に多くを詰め込んでいるので、著者の日本語論を知るためには日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)を読んだ方がよい。
今から世界へ広がっていく!! ★★★★★
大阪、京都では、「 あなたは◎◎◎ 」というのを「 自分は◎◎◎だ。 」という。これは不思議な言葉だ。
わたしというのと、あなたというのが一つだからだ。関西文化圏は、古い大和の文化を残している。
大和のこの大きな和というのは、今の言葉でいえば、ワンネスの世界だ。全てあなたも私も全てが一つである。
分離を促す「 私 」ではなくて、主語のない日本語はこれから世界へ広がっていくという著者の考えは、その
通りだと思う。夏目漱石の言葉に「 則天去私 」《 天に則(のっと)り私を去るの意 》があり、この世界が
今から広がっていく。日本は世界のひな型である。
この主語のない日本語という文化は今から世界へ広がっていく。
堀川のカマボコ ★★★★★
筆者は日本語以外話せないが、それゆえ本書は難しかった。「主語」はそれ自体が必要な外国語ではどんな重要な役割を果たしているのかということが体感として理解できていないからだ。
この重要な部分を説明しているのが本書の三部だてになっている第二部第五章だ。また本書では著者の既刊の著作を「参考に」ということで細かい説明は敢えて省いてある。このことも本書を読むだけでは難しく理解しにくいということを助長している。
だが、日本語を取り巻く他国の文化やさらには日本の文化(政治・経済にまで及んで)を論じている第一部・第三部を読むと、「だから日本語は不滅なのだ」と思わせられ不思議と納得させられてしまった。特に序章で展開される「堀川」の論考には終始一貫納得させられる点が多く、また著作権などもあるため突っ込んだ説明は控えるが、第三部で文化芸術にまで及んで日本語の危機意識を払拭してくれている。
筆者が知る限りにおいてもヨーロッパを始めアメリカでも漢字の人気は凄まじいものがある。また意味のないひらがなやカタカナ文字までタトゥーにしたりする外国人など多く見かけることは日本語がこの先単一民族だけの言語としてしか生き残れないという不安へも一縷の望みを残せそうだ。

西欧諸国では言葉(会話)を重んじる習慣があるとはどこかで聞いた事があるが、日本人は相手を重んじ「対話の場」を大切にすると著者はいう。日本語のコミュニケーションは自我の発露ではなく共存、共生を前提としているようだ。
著者は最後に日本語は世界を救うとまで言っているが、筆者も同感である。憲法9条は庶民の力で護らなくてはならないが、その伏兵役を日本語が果たしてくれることを是非願いたい。
反論ではなくカウンターポイント ★★★★★
亡びる亡びない、という論点は偽の論点だ。水村氏の労作が額にしわ寄せた日本語で書かれ、金谷氏の反論が隅々まで喜びに溢れた生きた言葉(それが表音文字言語であろうと表意文字言語であろうと何の違いがあるだろう)で書かれていることが、とりもなおさず、現代の日本語および日本文学が立たされている岐路を明確に示しているとは言えないだろうか。

水村氏の典拠は漱石である。漱石だけである。彼女は漱石という大きな権威のもとに、大学教育によって存続させるべき伝統(不思議なことに、彼女の伝統概念は欧州の構造主義者の一部のものと酷似している)として文学を見ている。その視点にたてば、なるほど谷崎も幸田文も紫式部も同列であろう。しかし、彼女は文学が翻訳不可能な知的倫理的美学的体系であると言っている。では、これほど違った文体の作者たちを「伝統」にくくってしまうことは間違っていないだろうか。文学者としては間違っているのだが、おそらく政治的な論説家としては当然のことなのかもしれない。

こうした政治的展望を持つ文学批評家、または文学史と称する制度史の研究者にとって、金谷氏のやり方が天衣無縫、もしくは無謀とすら思われることは致し方ない。しかし、彼のやり方は文学的に正統的なのである。彼は、亡びる亡びないと問う以前に日本語文法の具体例を解析し、そして、長々と文学作品の一部を引用している。これらの引用は、日本語の生命力を証明するにあたって、百万の理論に代わるものである。

一方で、水村氏の主張である文学=制度という議論はさて置くにしても、一体文学作品が後世まで受け継がれるのは、何の力によってだろうか、という疑問が残る。どのような文学作品も、書かれた当初は古典でも伝統でもなかったのである。この問題に取り組むには、まず文学の生命は文体の独自性にかかっており、文体とは作家の声であって、作家の声とはその人の人生を貫く感情だという自明の理を受け入れる必要があるだろう。デカルトは「全ての概念は情緒経験を通して初めて感じられ、理解し得るものとなる。知的理解は心から生まれる」と言っていなかっただろうか。今日古典と呼ばれる厳めしい装丁の倫理書さえも、それが時代時代を下って人の心を動かしてこなかったとしたら、残らなかったはずである。歴史であり、未来であるようなこの力、これが国語の生命と呼べるものではないのか。文学作品を正当に評価するにあたって、既存の評価を避け、衒学の誘惑を斥けることは、難しいが、どうしても必要なことだ。文体の価値は大きい。おそらく内容よりも大きい。水村氏の労作を貫く文体は、憂国のメランコリーを立派に表現しており、それが内容の説得力を生む。そうか、日本語は危機に瀕しているのかと思わせる一貫性がある。金谷氏の文体には、いや、日本語は死んでいない、と信じさせる喜びと純粋な驚きが隅々にまで響いている。理論的争点、概念的議論は、それら中心的な文体の推進力に、約定通りの形を与えるものにすぎないとさえ思われる。

水村氏の感情は制度によって保証され、よって彼女の文体は政治にベクトルを向けている。金谷氏の感情は人生によって潤され、その文体は文化に内在する生命と未来にベクトルを向けている。どちらをよしとするかは、読者自身が歩みたいと望む方向にかかっている。言語の未来を決定するのが政治なのか、それとも、与えられた言葉の意味を日々刷新しながら生きることを我々に強要する新鮮な情緒経験なのか、この問題も、読む人それぞれの立場の問題だろう。

しかし、現代の真の問題は、言語の制度と言語の生命を同時に考えることが出来ないということだ。水村氏の著と金谷氏の著は対位法的に響き合い、この問題を浮かび上がらせるように思う。
日本語は強靭、決して亡びない ★★★★★
金谷氏はカナダで日本語をフランス語話者である大学生に教えている教育実践者であるということが、大きな意味を持つ。その経験からほとばしる建設的な批判、反論は痛快であり、明るさ、壮快さを感じる。水村氏の論調に「違和感やいらいらした気持ち」を持った方にはお勧めである。

現代日本文学の状況を「現在でも本屋に入りそこに並んでいる本を目にし『文学の終わり』を身をもって感ぜずにいることは難しい。」と水谷氏は嘆き、近代文学だけが文学といわんばかりであるが、金谷氏は、モントリオールの大学図書館の日本現代文学を列記することで反論している。現代文学で、司馬遼太郎の「菜の花の沖」、浅田次郎「蒼穹の昴」、宮城谷昌光「楽穀」は個人的に感銘を受けた作品の一部である。

夏目漱石について、以前ジョン・アップダイクが英語で読んでいる限り、「漱石がなぜ日本で偉大な作家だとされているのかさっぱりわからない」と書いていたのを読んだ時の怒りと苦しみ、そして諦念。なぜ、アメリカの一作家の書評でそこまで悲観してしまうのかが全くわからない。スペイン、韓国でも、漱石は静かなブームを起こしているではないか。なにも、アメリカだけが世界ではない。「日本語は亡びない」は、序盤こそ水村氏への反論だが、内容的には「日本語に主語はいらない」、「日本語文法の謎を解く」の流れを汲んだ、日本語論である。日本語そのものの不倒構造に論を進め、日本語の5つの免疫効果を示す。日本語の強靭さが理解できて嬉しい。第4章「死にかけたのは英語」は、大変面白かった。職場で本書の話をしたら大いに盛り上がった。明るさ、建設的なことからしか新しいものは生まれないのである。金谷氏は、その実践者である。(追記)水村氏は、「漢文訓読がもっとも簡単な翻訳法である」と言っているが、他国の文章を書き下し文で読んでしまうなんて、とんでもない偉業であり、発明であると思っている。