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英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ

価格: ¥1,575
カテゴリ: 単行本(ソフトカバー)
ブランド: 講談社
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翻訳者必読の書 ★★★★★
この前に出ている2冊とともに、ものすごくおもしろい。今回のこの本は途中かなり脇道にそれ、ブッシュのアメリカを批判する。この点や、虫の視点と神の視点、あるいは盆栽とクリスマスツリーなどのあまりにうがちすぎのように感じられる比喩は、専門家なら眉をひそませ、人によってはトンデモ本に分類したがるかもしれない。しかし、日本語文法が学問的にどのような状況にあるのかは知らないが、金谷氏のこれらの本で主張されている日本語と西洋語の比較はどれも納得できる。

虫の視点と神の視点という区分けも、英語の視点が空爆に通じるかどうかは少々牽強付会気味だとは思うが、少なくとも西洋と東洋の「人と自然の関係」はこの視点の差で言えることが多いのではないかと思う。筆者はあまり強調しないが、ここに中世以来のキリスト教的な視点を組み合わせていけば、以前阿部謹也氏の書物で読んだ西洋の自然観がよりはっきりするような気がした。

金谷氏のこれら3冊は繰り返し読むべき本だと思う。少なくともわかりやすく、なおかつ実践的である。レヴュアーはさっそく最初の「日本語に主語はいらない」を読み直しているところである。
IT技術者にお勧め ★★★★★
著者の3部作の掉尾を飾るにふさわしい今後の発展へ展望を抱かせる名著である。日本語の文法の方が普遍的であり、英語は中英語以降一神教の洗脳にあって主語言語となってしまったと云った方が良いのだろうか。中東の紛争、テロなど一神教同志の争いは、泥沼の地球破壊、人類絶滅の様相を呈していることも、第2章で提示されている。本著の最後の方で、三上章の弟子と称する言語学者が、宗旨変更していく様が明らかになっているが、まこと情けない。多分、明治期の橋本進吉と同様、日本語の真の姿を解っていながら、西欧の物質文明に追いつく必要から、国文法をねじ曲げてしまったと同様の圧力がかかっているのだろう。それは最近のIT技術におけるコンピュータ言語の動向と無縁ではあるまい。本著が、欧米の殖民地的状況にある日本のIT低迷を抜本的に改革する糸口になればと思う。それは、日本語と同じ文法構造を持つ、欧米以外の諸民族(角田大作「世界の言語と日本語(くろしを出版)」参照)の民族再生の暁星となるであろう。著者同様、日本語の現場において、日夜、欧米的視点と格闘せざるをえない情報技術者の皆さんに是非読んでいただきたい著作である。
日本語主語ないの続編です。 ★★★★★
主語って一体なんなんでしょうかね。
考えてみりゃ、わざわざ主語つけて話す言葉って英語くらいなもんですよね。
ロシア語やスペイン語にだって、別に主語断りながら入れて喋る必要もないですし。
アイとかイットとか、ゼアとかわざわざ主語たりうる言葉がなけりゃ、話し言葉(たぶん書き言葉も)として機能しない言語って不便じゃないですか?
恐らくは「性」の区別が曖昧なんだろうけど、たぶんそのせい?
くだらない ★☆☆☆☆
「英語にも主語はなかった」と聞くと、何やら歴史的な観点から英語の主語について考察が体系的になされているかのような印象を受けるが、実際のところそのような記述はほんの数ページで、本書の大部分はタイトルと殆んど関係のない事柄で占められている。しかも内容から推察するところ、肝心の著者の英語史に関する知識も、いや、英語という言語そのものに対する知識も、本1冊それで埋め尽くせるほどの専門的レベルではないようである。(フォローのために付け加えておくと、ご自身の専門である日本語文法はお得意のようです。)

本書の内容はと言うと、「英語をやっていると攻撃的になる」と言わんばかりの根拠薄弱な主張の繰り返しで、その原因は英語が統語的に主語を必須としている「神の視点」の言語だかららしい。くだらない。著者は言語学者という肩書きをお持ちだが、本当に言語学的思考パターンを、それ以前に言語学一般に対する基礎的知識を身につけておられるのだろうか?前作を含め至る所で批判しておられる生成文法についても、初心者以前の理解度である。生成文法と学校文法は本質的に異なるということすら理解しておられないように見受けられる。そんな状態でありながら生成文法サイドからの反論を期待するなど、見当違いもいいところ。素人に間違った知識を植えつけないで下さい。
虫の目、鳥の目、神の目 ★★★★☆
 どこかのCMに"Mary,it's Daddy."というのがあった。これを日本語にすると、「メリー、お父さんだよ」となる。日本語には主語がない。これが陳述であることを示す「だ」という語があるからである。これがない英語では、わざわざitという内容のない主語を立てなければならない。なぜこういう構造ができたのかは、この本に詳しい。

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という「雪国」の書き出しは、英語では the train を主語にするという。英語による表記に基づき、絵を書かせると英語話者は飛ぶ鳥が汽車を見下ろしたような絵を書くという。

 日本語の原文は、鳥の目ではなく、「私」という虫の目から見た情景とそれに触発された気持ちの表現である。私が歩いていようが汽車に乗っていようが同じだが、歩いてトンネルを抜ける人は普通いないので、汽車にのっていることがおのずから分かる仕掛けになっている。

 著者は、鳥の目ならぬ神の目になってしまった英語が世界を支配することを憂慮している。その趣旨には賛成なのだが、神の目ならぬ虫の目で世界を見ることの大事さの論証が弱い。この論証をきちんとしないと、下手をすると、神の目だと世界を支配できるのだから、日本も英語を公用語にしようと言い出す人も出てきそうである。その点で星を一つ減らした。