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国家と祭祀―国家神道の現在

価格: ¥2,052
カテゴリ: 単行本
ブランド: 青土社
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戦後左翼インテリの極 ★☆☆☆☆
こういう「インテリ」が、戦後日本の元凶だと、改めて確信した。批判のための批判を構築しようとするから、いかにも難しくいかめしい文章になる。それが権威だと片意地張っている如くである。歴史観の前提が、単純に、戦後の自虐史観、東京裁判史観、要するに日本悪玉史観一色であり、そこから一歩も出ていない。戦後教育界は、このような歴史観を受け継ぐことで成立し、その歴史観に反する思想の学者を教育界から抹殺してきた。その結果、そういった左翼教師に毒された国民を大量に生み出し、今や天皇や幕末尊皇派、水戸学などは徹底的に歪められている。
著者は、チャイナ、コリアでは、「日本の数少ない良心」と言われているそうだ。著者の妻、子安美知子はシュタイナー教育の第一人者である。夫婦で、日本解体に余念が無い。
国家神道の残存を批判すること ★★★★☆
本書のライトモチーフは、現代の神道(史)学批判である。葦津珍彦にはじまり國學院大學の研究者を中心に展開されている、神道(学)者による「国家神道」の実証史学的な再検討。その背後にはしかし、「国家神道」を支えているイデオロギーの核のひとつである、神道=日本の古来より存続する民族(国民)宗教であるとする全体主義的な認識論があからさまに存在している。その、「国家神道」の亡霊の復活とでもいうべき研究・議論の、現代社会に及ぼしうるあやうい効力を憂慮しながら、著者は「国家神道」の言説構造を批判的に考察していく。
その考察のアプローチとして、近世思想における国家主義の起源の探求と、近代における「宗教」および「神道」概念の構築の過程の簡潔な再確認が、それぞれ行なわれる。後者に関しては、磯前順一の『近代日本の宗教言説とその系譜』(岩波書店)というもっと重要な仕事がすでにあるのでそれほど興味をそそられなかったが、前者に関しては、まさに著者の本領発揮という感じて、読みがいがあった。
水戸学、とりわけ後期における会沢正志斎の『新論』などで提示された国体論、これこそが天皇を頂点にすえる近代の「国家神道」主義の淵源である。皇祖神である天照大神に儒家的な「天」や「祖考」の観念を付与し、祭祀と戦争こそが国家という存在を成り立たしめる車の両輪であることを明確にした、神学的な国家論。その言説分析を遂行しつつ、著者はその近現代における作用を問い直していく。ちょっと前に、小島毅の『靖国史観』(ちくま新書)が出版され、これに近い議論をさらに詳しくやっているが、両者を併せて読めば、近代の「国家神道」とりわけ戦死者祭祀を扱う靖国神社に関しては、儒家的な世界観がかなり強力なバックボーンとなっていることが、改めてよくわかることだろう。
本書の難をいえば、神道学に対する批判が余りに一面的すぎ、ここ数十年の間に積み重ねられてきた実証的な成果の有益さに対する配慮が欠けていること、それから、では著者は、「国家神道」の発想から自由になったあと、ではいかなる「神道」の言説を発していけばよいと考えているのか、不明瞭である、ということだ。学問的な批判は実はたやすい。その後、を構想することを放棄するのならば。
神域に眠れるもの ★★★★★
国家神道というものには、祭教分離と祭政一致により、政教分離の批判を言い逃れようとした姑息さがあったことを、この本で初めて知った。
法制度は過去のものであったとしても、宗教人に持ち続けられている国家/権力への欲望も、帝国の挫折から起死回生を図ろうとするかのような戦争への欲望も、どちらも現在のものである。
両者は、一見は眠りについているかのようで、いつでも目覚める危険性はあり、常に叩き起こす危険性がある。
本書は戦う国家と祀る国家という視点から、戦争放棄と政教分離の現代的な意義を意味づけ直している。

読み慣れない漢字が多い上に、久々の専門書は文章が硬く、一文が長く、非常に読みづらい感があった。
が、第三章に至り、著者自身が失った家族に対する記憶と情緒がにじみ、なぜ彼がこの主題にひきつけられるのかを見出すことができる。
本文はとても読みきれないという人にも、せめてあとがきだけは読んでいただきたいと、広く考えてもらいたいと、心から願う。

強力な国家宗教論 ★★★★★
著者は、多くの著書をものにしつつ、今なおフリーな立場から研究を続けている日本思想史の研究者である。

「祀る国家とは、戦う国家である」。著者は力強くそう言い切る。

一瞬、反論したくなるかもしれない。私もそうだった。
しかし、子安宣邦のこの議論に反論するのはなかなか難しい。安直な反論は簡単に撥ね返されてしまうだろう。それだけの峻厳さが、本書の議論にはある。

もし感情的に反発を覚えたら、ありきたりな反論は飲み込んで、著者の議論を念頭に置きつつ、伊勢神宮や靖国神社・遊就館を訪れて、一度よく考えてみてほしい。それまで見えていたものとは別の何かが見えてくるかもしれない。

個人的には、本書中で厳しく批判されている、近代神道の研究者たちからの応答に期待したい。シビアなやり取りになるだろうが、学問的に誠実な議論となれば、それは大いに有益なものとなるであろうから。